Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

好きなことをやっていれば報われるのか

f:id:emi_tochio:20161212050136j:imageこれは、仕事について、よくある図。いろんなところで見るのでパクリじゃないよね?(怪しい)

  1. 好きなこと
  2. 得意なこと
  3. 人の役に立つこと

これらはたぶん、バラバラなのだ。人の役に立つというのは、求められる、お金になるってことね。

 

好きなことを続けているだけじゃ報われないだろっ

「好きなことを続けていればいつか評価される」なんて、簡単に言うしそれを信じている人がいて、なんだかもやもやする。

だけど、私自身がそれを信じていなかったら、好きなことで報われるなんてできないんじゃないかと思ったり。

 

いや、必ず報われないわけじゃなくて、好きなこと「だけ」やっててもダメなのだ。

好きなことを「得意」にする必要があるし、あるいは好きなことの中で「得意」を見つけなくてはならない。

さらに、「報われる」ってのは、やっぱりそれでお金が稼げるってことに限りなく近いと思うので、人に求められるようなエリアを見つけなくてはならない。

 

かつ、好きなことばかりやっていて稼げない状況を、普通の人は乗り越えられない。

だけど私は諦めが悪いので、ボソボソと物語を書いたり、こうしてブログを書いたりする。

 

わかってくれる人は少ない

あとは、求めてくれる人をどう考えるかも、大事。

多くの人に求められなくてはいけないのか。100人のうちひとりに響けばいいのか。

ビジネスでよく言われるのは、100人にひとりでもいいじゃない、ということ。

もちろんそれでいいんだけど、簡単には100人に認知させられないよね。

だから、10人中5人が興味を持ってくれることに走ってしまう。

 

それでも100人にひとりを目指したとして、やっと響いたたったひとりが声を上げてくれるかというと、上げてくれない。

そこで声を上げてもらうためには、たとえば100人が必要なのだ。つまり、10000人のうち、100人。だから10000人に届けなきゃいけない。

 

自分で判断できる人がそもそも少ない

人は人を実績で評価する。それは、自分の見る目を信じていないともいえる。

だから、実績で大した人だと思えば評価するけど、そうでなければ箸にも棒にもかからない。

 

でも実績で評価しない人が、たまにいる。自分で判断できる人。自分の見る目を信じているし、それによる成功体験もある。

100人のなかのひとりが、そういう人ならいいよね。

でもそれはもう奇跡のようなことで、それを待っていても始まらない。

 

でも、奇跡のようなことがないわけではない。自分で判断できる人100人に当たってみれば確率は上がる。

 

待ってちゃダメだっていう、ありふれたシメでいいんでしょうかw

季節を感じる

f:id:emi_tochio:20161204213714j:imageとにかく光が丘公園が好きすぎる。

 

夏の終わり、セミの死骸を前に硬直してしまった長男の扱いに困りはて、くさいギンナンに立ち向かう勇気も出ず、しばらく間が空いてしまったのだけど、行ってきた。

 

結論から言えばサイコーで、何がどうしてこんなに最高なんだろうと考える。

 

公園って、子どもに「ダメッ!」って言わなきゃいけないことがあまりない。

走り回っていいし大声出してもいいし、好き勝手拾ったり投げたり、目に付いたものをいじくりまわしたりしてもいい。

だから大人のストレスが全然ない。

f:id:emi_tochio:20161204214955j:image

 

今日は結構陽の光が暖かくて冷たい風もなかったし、落ち葉が高級絨毯のようにフカフカ。パリパリと音がするのも楽しい。

日が落ちてくると、陽の光が落ち葉にあたってキラキラと光っていてキレイ。子どもは光の中で落ち葉にまみれていた。

 f:id:emi_tochio:20161204215016j:image

 

落ち葉がはらはらと落ちてくるのはなんといっても美しく、写真に収めることのできない(収められても大して感動しない)その場にいる人の特権で。

 

いろいろな木と、いろんな形の、いろんな色をした葉っぱ。大きさも全然違って。場所を移動すると落ちている葉が変わり、ああ、この木はもみじなんだなあとか考える。

 

上を向けば葉っぱに陽の光が透けて、これもまた絵になるというか。

 

たくさんの子どもが走りながらケラケラ笑ってて、大人も笑いながら走ってる。

天国かよ。

 

帰り道、自転車に乗りながら次男は寝てしまい、長男は疲れた疲れたといいながら自転車をこぐ。

帰ってからも終始ご機嫌で、授業や宿題、ママの「早くしろ」攻撃などでストレスを溜めているいつもの状態と雲泥の差。ずっとニコニコと、冗談ばかり言っていた。

 

光が丘公園が近くてよかったよ。

 

最近のメディアの騒動を見て思い返す不毛の時代

f:id:emi_tochio:20161202193222j:image最近のwelqなどの騒動を見て思うところはいろいろある。

ほんの数年の間に時代が変わる激動の渦に、私たちライターは、翻弄されていると感じる。

 

自分の価値が疑わしい

「書くスキル」はあるけど何かの専門家ではない。つまり取材などで情報をインプットしないと書くことができない、という私のようなライターは、ネットではニーズが少ないのかも、と疑問を持っていた数年前。

 

ある情報から、記事を書く。素人に近いライターが書いたものと、私が書いたものは、そりゃ文章としては私の方が整っていて、正確さも勝るかもしれないけど、読者がそれを求めているのか? といったらそんなことはないのだろうと。

「~ます。」「~ます。」「~ます。」と語尾がダブっていようと、「てにをは」が多少間違っていようと、読者が知りたい情報がたくさん載っている方がいい。

 

同じ作業でも、ギャラにしておそらく数倍~数十倍は変わってしまう。さらに私ならたぶん取材をするので、もっと差が付く。だったら、多少文章が下手でも安い方がいい。何年も文章を研いたプロである必要なんてない。時間のある人が小遣い稼ぎに書いた記事だっていい。

 

「文章のうまさは書く側のエゴじゃないの?」なんて言うライター仲間もいた。

 

内容よりタイトルや画像

煽るタイトルがバズる。「何々の5つのコツ」なんて書けばPVが稼げる。内容はスカスカでも、画像を豊富に入れて結論を引っ張れば滞在時間が延ばせる。

そんなコンテンツが求められているなら、人より少し書けるだけのライターに何の意味があるのだろうかと。

 

仕事の打診でがっくりくる

数年前は、問い合わせもそんな仕事ばかり。

「リサーチをして3000字程度にまとめる仕事です」

「取材はしないのですか?」

「取材は想定していません。月に何本できますか」

 

取材して、そこそこ読み応えのある記事を書けたからって、それがなんなのだ。ネットで誰が読み応えのある一次情報を求めていて、誰がお金を払うのか、と自信喪失する。

 

コラム系のお仕事で、

「そういう記事書いて欲しいです!」

って意気投合したのに、ギャラは素人と同じと提案されたことがあった。

「書くスキル」って何なんだろう。必要ないのかな。

あとからそのメディアを覗いてみると、素人さんが書いた記事がバズってたりする。私が書いてもバスらないんだろうな。だったら、素人さんに何十本も書かせて数本当たった方がいいよね。とか。

 

コピペに気持ち悪さを感じない人

今までの取引先でも「○○についてツイッターなどのコメントをまとめる」なんて企画を依頼される。

幸いにも私はやらなくて済んだけど、それをやるのはすごく気持ちが悪い。だけど、それに気持ち悪さを感じない人が生き残っていくんだろうなと思ってしまう。

 

いつか報われるのか

正しいことをやっていればいつか報われる、なんて、昔からあまり思えない。

ツイッターをまとめる方が正しいかもしれないし。少なくとも法的には問題ないんだろうし。

もともとグレーだったビジネスが、どんどん大きくなって誰もが認めるものに成長していった例もたくさんあるしね。

 

だからちゃんとやっているつもりでも、自分の価値をずっと疑っていたし、これからもそれは続くかもしれない。

仕事の価値は、やはり市場が決めると思うから。

 

だけど、今回の件でパクリや低クオリティに関する意識が上がったこと。適当やっている人たちが多少なりともビクビクする状況になってきたこと。

それは喜ばしいと思っている。

いつか報われる、と思っていたわけではないけれど、なんか「報われた感」はあるよね。