Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

本の選び方、読み方、扱い方

f:id:emi_tochio:20170122224031j:image先日「本ってどうやって選んでるんですか?」と聞かれたので、選び方だけでなく、付き合い方みたいなものをなんとなくまとめてみる。

書店で選ぶ、Amazonで選ぶ

書店では、目的もなくだらだらと、吸い寄せられるままに手に取り、ぱらぱらと。

そうしてるうちに興味のあるところへ行っているので、買いたければ買うし、買いたくなければ買わない。

あまりに読みやすいスカスカの本は最近買わない。ビジネス書なら、割と権威ある方とか、翻訳ものとかの骨太なやつが多い。

小説は、なかなか買わない。唯一作家買いしてるのが森博嗣さんで、村上春樹さんとかときどき。

Amazonでは、知りたいことについてキーワード検索して、買う。本当は紙がいい。それは家の中でもう一度出会いがあるから。でも値段と中身の兼ね合いでKindleも結構買う。

あとはメルマガとかSNSで知った本はピンポイントでAmazonで買う。本屋は出会いを求めに行くので、決め打ちで買いに行くことはとても少ない。

ハズレも多い

ハズレはもちろんある。途中まで読んでイマイチなら、放っておく。

良ければ一気に読む。毎日隙を見て読む。でも、そんな夢中になれる本はなかなかない。

ブックカバーをしない

ブックカバーをしない。

本屋ではすごく読みたいのに、家に帰って置いておくとイマイチ熱が入らない。それはブックカバーをしてせっかくの装丁を隠してしまっているからに他ならない。

本屋での出会いをもう一度自宅で。そのためにブックカバーはしません。(もともとあるカバーはつけておくよ)

あらゆるところに置く

いろんなところに少しずつ置いてある。リビング、寝室、仕事部屋。それで手が空いた時にぱらぱらと読む。あまり手が開くことはないけど。ただ、手に取りやすいところに置いておくのが大切。

何冊も並行して読む

読み終わってから次の本へ行く、という読み方だと、ハズレに会ったら読書習慣がなくなってしまう。

適当に並行して読み進めれば、読みたいやつをどんどん読むので読書習慣がなくならない。

バッグに1-2冊

いつもバッグに1-2冊入れておく。でも最近はスマホばっかりやってなかなか本が進まなかったりもするけど。。。

ラジオ体操後に読む

ラジオ体操を毎朝するようにしていて、終わると6:40。家族を起こすのが7:00なので、20分間読書するようにしている。ワーママ的にはその20分もなかなか貴重だし、チリも積もればかなって。

本は良質なコンテンツ

本は質が高い。本当に高い。

SNSしている時間を読書に変えれば、もっと生活に深みが増すだろうな。もっと読むようにしよう。

Instagram で本好きを探す!

追加。

インスタに本好きがたくさんいることが判明。

読書家って、いるんだなあと。「読書」とか「本」とか、著者名、タイトルでハッシュタグ付けるのがおすすめです。

読書という孤独な体験で人と繋がれる喜び、ただ単に「こんなに本好きがいるんだ」という驚き、同じ本を読んだ人のリアルな感想が読める楽しさ(やはりSNSAmazonのレビューとは印象が違う)、とかがメリットです。

 

 

 

名前をもらうと霧が晴れていく

f:id:emi_tochio:20170119144305j:plain

もやっとしていることがあった。

 

「もや」その1:自らの広報活動について

私はある程度の期間匿名でネットにいろいろ書いていたけれど、あるときから実名でやるようになった。なんでだろうか。それは、自己顕示欲とかではおそらくない。

さらに、実名でやるようになった後もしばらく、ブログを自分でシェアしなかった。だけど、それも考えが代わって、自ら告知するようになった

まず周りの人に見てもらうのが大切だとか、誰かに見てもらってこそ仕事ややりたいことにつながるだろうとか、作ったものと「広報として自分」を切り離して考えようとか、いろいろ。でも、なんだかうまく説明できない。

わかっている人に話すと「大事だよね~」って、つながる。多くは語らなくても全貌が見える。だけど、そうじゃない人にはうまく説明できない。

 

だけど先日、キンコン西野さんがこんなことを書いていた。

lineblog.me

書店で見た「Discover Japan」にも書かれていて、「クリエイティブの育児放棄ってあった。作るだけで、届けようとしない。「育児放棄」って言葉がものすごく秀逸で、すごく「ダメなこと」感が出てる。生むだけじゃ、親失格だよね、って。

それですごく、腑に落ちた。自分が救われた気がした。自分が作ったものを「ねえ、見て見て!」って発信することは、なんだか恥ずかしいことのように思ってしまいがち。だけど、それは立派なことであり、むしろやらない人は恥ずべき! みたいなね。

 

「もや」その2:広報活動の方向性について

私は自分をいろんな人に知ってもらって、あわよくばちょっとでも好きになってもらいたいと思っている。

そのためにいろいろ発信をしているのだけど、どうも広がらない。「ブログ好きです」「○○のファンです」的なメールをくださったり、メッセージをくれる方は(本当に少しだけど)ときどきいらして、大変にありがたい。

でもなんか足りなくて、もっと何を頑張ればいいのかよくわからない。

「やっぱり、強いメディアで書かなくちゃダメなのかな」

「書いてるものが面白くないのかな」

なんていろいろと思うんだけど、結局よくわからない。

で、また西野さんのこれ。

lineblog.me

ただ単に知られている人は「認知」のある人、ファンが多いのは「人気」のある人だという。

私は今後、「認知」を広げる努力をしなくてはいけないのかなと。

(だけどどうすればいいのか、まだわかりません。)

 

名前(言葉)によって、もやもやしていたものが、はっきりした。

相変わらずモヤモヤしている部分もあるけど、それをある程度ちゃんと、説明できるのかもしれないと。

「一番」から逃げる

f:id:emi_tochio:20170118121152p:plain

一番好きなものから逃げる、という気持ち、わかりますか?

 

例えば、同じグループで好きな男子がいるんだけど、話しかけられない。だから、その次に気に入っている、話しかけやすい男子と盛り上がったり。

合コンでもなんだか、一番好みの人には話しかけづらかったり。

 

本当に「羨ましい」ことは、口に出せなかったり。

ちょっと欲しい、くらいのものなら「えーいいなー。うらやましー(棒)」って、言えるのにね。

 

一番やりたいものにチャンレンジするのが怖い。そんな気持ち、ありますよね。

例えば、うまくいかなかったら尋常じゃなく傷つく。自分の足りない部分を見つめ直すのが怖い(チャンレジしなければ「やればできる」と思い続けられるかも?)。向き合って、好きじゃなくなってしまったら怖い。

なんとなく、届かないところに置いておきたい、そんな気持ちもあるのかも。

 

「ちょっと好き」くらいのものなら、叶わない人を目にしたって絶望感はないし、うまくいかなかったら別のものにまたトライすればいい。

だけどちょっと、それだともったいないなって思うんですよね。

 

かくいう私も「本当に一番なもの」から逃げていたんだけど、そういうのはもうやめようかなって思ったんですね。

体を全部預けることは相変わらずできないけど、少しずつ続けるだけなら「自分が傷つく」ってことを除けば無害だなって。それで少し前進できるなら、やらないよりマシだし。

でもきっとそれも、体を全部預けることに比べたら遠回りなんだよね。