Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

本当の気持ちを言えない女の子に共感する

この記事を読んで。

www.asahi.com

WONDERを思い出した。

生まれつき、顔に障害がある男の子の話。

ここにも書いた。

emitochio.hatenablog.com

 

ついさっき思い出した。

私が一番共感したのは、主人公のオーガストのお姉ちゃん、ヴィアだった。

この本は章ごとに語り手が代わるんだけど、ヴィアの回を読むときは苦しくて苦しくて涙が止まらなかった。(以下ネタバレあります)

ヴィアはどんな子か

お父さんとお母さんはできた人で、ヴィアのこともちゃんと大切にしている。

でも、どうしてもオーガスト優先になる。それは仕方ない、とちゃんと納得している。頭では。

おばあちゃんは、ヴィアをわかってくれる人だった。「おばあちゃんはあなたが一番大切」と(他の人に内緒で)言ってくれる唯一の家族。でもそのおばあちゃんも、クリスマスの日に亡くなってしまう。

 

弟のオーガストに差別的な発言や態度をする人には、殴りかかりそうなほどの憎しみを込めてにらみつける。それくらい、オーガストを愛している。

でも、オーガストを恥ずかしいと思ってしまう瞬間があって、そんな自分を責めてしまう。

 

頭でわかっていることと、何も感じないのは違う。

私も自分の頭を納得させるのが(たぶん)上手いので、頭でわかっていることに従って行動することが多い。

そして本当の感情はあまり人に言わない。だから、ヴィアにものすごく共感してしまったんですね。

(おわり)

記事内のリンクまとめ

顔ニモマケズ、僕は生きる 内面好きと言ってくれた彼女:朝日新聞デジタル

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「正しい」より「親切」を選べるか? - Low Kick - 2nd -

プログラミングから考える、ものを作る喜び

プログラミング教育について、ちょっと考えるきっかけとなったこの記事。

kodomomirai.com

やまもといちろうさんの記事で、彼の場合は「やりたいこと」が先にあって、それを実現するために、人に聞いたり独学したりしてプログラミングを覚えていったということ。

それはとても美しい話。

 

かたや私は、(小6の時に本を見ながらMSXにBASICのプログラミングを打ち込んで、書かれた通りに出力されることに喜んでいた時期を除いては)大学(情報工学科)に入ってからプログラミングを「習った」。

でもそれなりに、楽しかった。アルゴリズムを考えるのも、ソースコードを書くのも、デバッグするのも(ときどき時間がかかりすぎて辟易したけど)、それなりに楽しめた。

やまもといちろうさんが書くように最初に目的があった方がいいのはもちろんなんだけど、私の大学時代のように「何ができるかよくわかんないんだけどとりあえず組んでみなされ」的な学び方でも、楽しくなる人はいる。

なぜ楽しくないのか

先日ある若い女性(リケジョ)と話していて、彼女は大学時代にプログラミングが苦手だったという。

「電卓でやった方が早いようなことをプログラミングしろって言われても」

と、言っていた。

その時はなるほどねーと思ったけど、自分を振り返ると、それでも楽しいような気がする。

アウトプットという概念

小6でBASICを入力したときにどんなことを感じたのか。わざわざ言語化はしなかったけど必死に思い出してみるに、アウトプットというのは大きな壁だということ。

中でぐるぐる計算して、結果は出ているのに、それだけでは確認する術がない。コンピュータが何をしたのか、結果をアウトプットしなくてはいけない。

こんなにたくさんの文字(ソースコード)を書いたのに、目に見える結果(アウトプット)はほんの少し。そこには少しがっかりした。

見た目はしょぼいなと思ったけどそこは子どもの想像力で、美しいインタフェースを心の中で補完した。

 

大学で再度学んで感じたのは、プログラミングには明確な出口があって、「アウトプット」という、「中での計算」と別の世界がある。いくら計算ができても、アウトプットするためのコマンドを知らないと、何も意味を成さない。

Excelの関数では、これを感じないと思う。計算だけしておけば、勝手に出力してくれるから。 

 

一方で、動かしているだけの人からすると、アウトプットが全てだ。

自分のコントロール下でアウトプットできる

プログラミングの勉強をし始めた頃、私はその「アウトプット」のコマンドに、ロマンを覚えたような気がするのだ。

水面下でやっていたものが、ぽろっと出てきた、という喜び。中の世界と外の世界がつながったような感覚。自分のコントロールで、出力できるんだ、ってことが、嬉しかった気がする。

 

それは、物を作って「見えるもの」にするのと似ているんじゃないか。

私は今でも、つい作りたくなってしまうものがある。ちょっとしたラクガキとか、消しゴムはんことか。昔だったらビーズとか、編み物とか。

形にすることで、自分と外界がつながる。妄想がリアルになる、という感じ。

 

そんな風にプログラミングを好きになる人もいるんだってことを、ちょっと書いてみたくなったのでした。

好きなものは自分で決める

以前、こんなエントリーを書いた。

emitochio.hatenablog.com

嫌いな人は自分で決めているようで、誰かが言う悪口で決めたり、相手が自分を嫌っているからと嫌いになったり、結局自分で判断していない、という話。

今回は好きなものの話。

「好きになれ」という圧力

そんなことって、今まであまり経験なかったんだけど「○○に興味がないのはおかしいだろ」と言われることが、最近数回あった。

たぶん、一緒に盛り上がったり、共感したりしたいんだと思うんだけどね。

○○の中身は、政治だったり、教養だったり、ビジネス知識だったり、一般常識だったり、流行だったりするんだろうけど、人によって「知っておくべき」と思うものっていろいろある。

それに興味が持てず、結果あまり知らないのは私が悪いのだろうか。やっぱり、「知っておくべき」ことを知らないのは、悪いのかな。

同じ意見を求めない、違う意見を歓迎する

パートナーを選ぶ条件として「価値観が近い」「同じものが好き」を挙げる人って結構いる。でも、私はたぶん違う。

私は夫とおそらくお金の価値観は近い(というか一緒に生活するんだから近づいて来た)けど、趣味がまったく合わない。合わせようとも思わない。

相手が楽しそうにしていることに、自然と興味が出ることはある。夫がクラシックに興味が出てきたから、私も聴いてみようかな、とか。そういうの。

それはお互い嬉しいけれど、相手が「私が好きなこと」に興味を示さないからといって、何か不満に思うことはない。「興味の方向が違う」というのがそもそもの前提だからだ。

映画とかも「○○行こうよ」「えー俺はこっちが観たい」「こっちの方が面白いって!」とかで揉めるのはよくありそうだけど、私は一人で行ってしまう(子育て中なので今は難しいけど)。そもそも、観たい映画が一致すると思っていない。

夫もおそらく同じスタンスで、「あなたはそういうのが好きだよね」で、終わり。おそらく、尊重してくれているというのか。

かつ、相手に合わせて、相手が好きそうな映画を二人で観に行くこともある。一番観たい映画はひとりで見ればよくて、ふたりで観ることに意味がある、というようなとき。

「そんなことも知らないの」って思うか、言うか

私はいろいろ知らないことも多いけど、「ほんとに知らないんだね」で(呆れているようだけど)、それで終わり。過去にはバカにされることもあって、それはちゃんと言って直してもらったけど。

もちろん、私の方が知っている、っていうこともたくさんある。

 

今まで当たり前だと思っていたんだけど、これは大変にありがたく、贅沢で珍しい環境なのかもしれないなと。

私だけのセンサー

よく見るもの、よく目にするものは、何となく好きになってしまう。でもそこに自分の「見る目」をどれだけ入れられるか。見る目、は素人でもいい。だけどちゃんと、私だけのセンサーでありたい。

センサーの機能がすごく顕著なのは、私にとって音楽。今はあまり音楽を探しに行ったりしないのだけど、カフェやラジオで流れてくると、好きな音楽はすぐに分かる。

あまりBGMとかに気をつけて耳を澄ませているタイプでもないんだけど、私のセンサーが反応するとすぐにわかる。たとえば、こんな出会い。

emitochio.hatenablog.com

ラジオで気になり、Amazon Primeでやっと見つけた! と思ったら、サイフからそのアーティストの名前が書かれたメモが出てくる、という不思議な体験。

 

で、私のセンサーは私のセンサーでしかないので、「この曲を聴いている人はこれも聴いています」とおすすめされたアーティストの曲を聴いても、あまり響かなかったりする。

結局

「ねばならない」で興味を示そうとしたり、誰かと仲良くなりたいからと興味あるフリをしたり、という道を通らずに生きてきてしまったわけだけど、もしかして、それってすごく贅沢だったのかな。

だいたいグループでいたりすると、「同じものを好きになろうよ」という同調圧力みたいなものに押されていくのが通常なんでしょうか。

記事内のリンクまとめ

嫌いな人は誰が決める - Low Kick - 2nd -

出逢うべくして出逢う(Mindy Gledhillふたたび) - Low Kick - 2nd -