Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

何度もそこに行ってしまうのに、求めるものが何もない

メスを求めて嗅ぎ分ける

子ども用のファーブル先生の本を読んでいる。寝る前に少しずつ読み聞かせ。

ファーブル先生の部屋の中に居るたった1匹のメスの蛾に引き寄せられ、何十匹ものオスが飛んでくるんだとか。

まだフェロモンというのが見つかっていなくて「オスはどうやって見えないメスを探し出すのか?」と、ファーブル先生がメスをいろんな箱やケースに隠して試行錯誤する様子が描かれていた。

吸い寄せられるのに何もない 

私の日常にも、オスの蛾みたいなことがときどき起こる。

例えば、全然関係のない生活をしているのだけど、哲学の方に何となく寄っていってしまう。それで哲学関連の本を読むと「あ、ここではなかったのかな」と思う。

でも少しするとまた吸い寄せられるように興味が出て、本を買って「コレジャナイ」感。そんなことが間を開けて何度もある。

何度もそこへ行ってしまう。それなのに、メスの蛾は見当たらない。

繰り返すうちに「私が好きなのは『哲学する』なんだな」と少しヒントが得られたりする。

で、その『哲学する』ってどこにあるんだろう? ふとFacebookのタイムラインに流れてきた「こども哲学」にはすごくありそうだと思えた。

私が求めているメス。つまり私の片割れ。

こども哲学は、これまでのいろんなことよりも近い気がしている。

 

あと、何のつながりがあるかわからずやってきたことにも、すこしだけあるようだ。

例えばポッドキャスト、例えば#電流ランチ

もう少し続けて、他にも広げてみれば、また求めているものに近づくことができるんじゃないか。

もともとある枠にはまる方が奇跡的なのでは

例えば「SF好き」とか「ファンタジー好き」とか「ヘビメタ好き」とかあるけど、既にあるジャンルの枠にはまれる人は本当に幸せな部類なんだと思う。

自分が本当に好きなものなんて、既にある枠にはまる可能性の方が低いんじゃないか。

だから自分で作ったり、何か試行錯誤して見つけるしかない。別に見つけなくても死にはしないので、見つけなくたっていいんだけどね。

自分の好きなものの枠組が存在しない

なぜこんなことを思ったかというと、音楽ね。

「これめちゃ私が好きそう!」って(自分では)明らかなのに、それをカテゴライズする名称がない。

ひとつの曲が気になって「そうかこれは○○というジャンルか」と思って他のを聞いても全然ぴんと来ない。

同じことを何度か繰り返し、気になる曲を集めてみると明確な傾向とか共通点がある。なのにそれらは別のジャンルにくくられていて、バラバラの場所に置いてあるのだ。

 

だから私は、自分が「求めるもの」を自分で作り出さなくてはならないんだなと、思うわけです。

いろんなところに散らばっているものを集めるのか、どこかの隙間に忘れられているものを見つけるのか、ゼロから生み出さなくてはならないのか、それはよくわからないけれど。

目的や意義なんてなく、好きなように

コルクラボ、というコミュニティに第二期生として申し込みをしました。簡単にいうとオンラインサロンなんだよね。

そこの第1期生にサクちゃんという方がいらして、言葉の紡ぎ方がとても素敵な方で、ソール・ライター展の話を、noteに書いていた。

note.mu

私はしいたけ占いをやっていないんだけど、ソール・ライター展は行ったし映画も見たので、読んだ。

書かれていたのを引用。

どこにいてもなにをしていても、それをどう見るかを自分で決めていい。すきな部分で切り取っていい。人に見せても伝えてもいいし、しなくてもいい。

そういえば、私もソール・ライター展に行った感想をTwitterに上げていたけどなんだったっけ。感じたことなのに、忘れてしまう。 

忘れてしまったので、探した。

忘れてしまったのが寂しかったので、ブログにあげておくことにした。

そうそう、マーク・ザッカーバーグの「すべての人に目的や意義を」というスピーチがバズっていて、それになんだか共感できなかったから、ちょっとひねくれてみたのだった。

サクちゃんさんのと無理矢理結びつけるなら、ソール・ライターの「好きなように撮る」がとってもよかった、ってそういうことなのかな。

 

人工知能に与えるゴール

人工知能のテレビ番組を見た

私の界隈(主にFacebookTwitter)で話題だったので、全録で見た。

www6.nhk.or.jp

私はそもそも将棋の複雑さを知らないので、「ゲームがあってルールがあって、記憶を大量にすれば勝てるんだろうから、コンピューターが勝つに決まってるじゃないの」って思ってて、それがどうして今の今までかかるのかしら? という方を不思議に思っていたくらい。

人間の世界はもっともっとあいまいなことで溢れていて、人間はそれをほぼ瞬時に判断しているわけで、かっちり決まっていることで人間に勝つのがこんなに大変なら、コンピューターもまだまだなんだろうな、って思っていたわけです。

でも番組を見たら、アルゴリズムを与えればいい、というほどの簡単なものではなくて、これまでのありとあらゆる対極を学習して、さらには自分を相手に想像を絶する数の対極を進めて、知能を高めていくらしいのだ。

これは人間にすごく似ていないか。

人工知能と感情の話

つい先日読み終わった本は、人工知能が当たり前になっている世界の話。

amzn.to

引きこもりのようにずっと考え続けていたコンピュータが世に出てきたときに、人を思いやったり、気遣ったり、意地を張ったりするようになっていた、という話。

人がパラメーターを与えなくても、果てしのない数の学習によって、コンピューターが感情を獲得するようになるのかしら、なんてことを考えた。

 

人間が新しい人工知能を生みだすんじゃなくて、コンピューターがじっと考え続けて何かに変わっていく。そういうことなのかな。

ゴールをどこに設定するか

番組の話に戻って。

人工知能は、与えられたゴールに従って最適解を提案する。例えば、「タクシーが客を拾う確率が高い道」「離職しやすい社員」「将棋に勝つための一手」など、それはゴールが明確にあるわけだ。

だけど、番組の中で出てきた韓国の話で、人工知能が政治の政策を提案する、という事例については、ゴールが明確に言われていなかった。果たして政治のゴールって、何なのだろう。経済を発展させること? できるだけ幸せな人が多いこと? 不幸な人をなくすこと? ゴールの設定を間違えると、人工知能が導き出す回答も間違いになるだろう。

ただ「間違い」って言ったって、はたして正しいゴールなんてあるんだろうか?

で、こんなツイートをしたんだけど、

でもね、最終的には人工知能にゴールを決めてもらった方がいいんじゃないのかなとか。思うわけですよね。

でも結局は、「自分が」幸せになることがゴールになるのかな? どうなんでしょうね?