Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

記憶力と感情と人工知能

ポッドキャスト「クリエイティブの反対語」で、記憶力について話した。

emitochio.net

そこで「感情が伴うと記憶に残る」という話をした。

そのあと、TakramさんのPodcastを聞いて、

soundcloud.com

すべての記憶を忘れ(られ)ない人工知能が・・・、といった仮定の(?)話をしていて、やっぱり人間って忘れられる分よくできているなと思った。

 

(ここからは、私の頭の中)

結局いま、ビッグデータがあるだけでは(つまり全部の情報を対等に覚えているだけでは)うまく使いこなせなくて、そこでデータアナリストといった人が有用なデータをどうにかして取り出さなくてはならない、ってことになっている。

人間は(おそらく他の生き物も)、そこに感情という重みのあるタグを付けることで、精密なインデックスの代わりにした。記憶とは、覚えるだけじゃなくて取り出せなくては意味がない。取り出すために、感情が必要なんだろうと思う。

いまはまだ、人工知能に感情が生まれていない(はず)。それは、機械が人間に近づこうとしたときには大きな壁になるんだろうな。

感情があるのと、感情があるように見えるのは同じこと、という議論も確かあったと思う。本当に優しい気持ちからやさしくする人と、気持ちがないけど優しい振る舞いをする人は、外から見ると同じだ。

だけど感情とは外に対してだけじゃなくて、内側に対して必要なんだろうと思う。記憶をするため、記憶を取り出すため、大事なことを見分けるため。

今後もし、人工知能に感情が生まれたら(生まれるというより、最初はネガティブとポジティブに重み付けをするくらいなのかもしれないけど)、私はついに来るべきときが来たかと、ちょっとがっかりしてしまうような気がする。

より自分に近いのはどれなのか

本当の自分なんて、どこにもないんだけど。

ただ、私はある程度いろんなものを書いたり描いたり話したりして発信していて、それぞれでキャラクターが異なるように思う。

安田さんのPodcastと、自分でやっているクリエイティブの反対語が別人のようだ、とリスナーさんに言われたこともあるし。(聞いてくださってありがとうございます!)

最近ブログ読んでます、note読んでます、と行ってくださった方がいて、私は何となくブログの方を読んで欲しいなと思ったんだよね。

 

ここは本当に独り言なのでまとまっていなくて読みづらいことこの上ないと思う。

でも、その時の自分の考え、つまり蛇口からジャージャー出たものを、溜めてあるところ。だけどその分(殺菌してないから)腐っちゃうこともあるのかなーとか。

noteの方は基本創作だし、当然ながら人に読んでもらうためにわかるように書いているので、そのままの私じゃなくてパッケージングされているよな、と思ったわけですね。

だけど最近書いたやつとか読み直してみたら、ちょっとこれ裸じゃん! みたいなのがあって。もしかしたらこっちの方が素なの? みたいな。

これは何に例えられるのだろうか。ちょっとグロいけど、結局は自分の皮を剥いでパッケージングしてるってことなのかな。だから生々しいのかな・・・(稚拙とも言う)。

 

より自分に近い、なんてやっぱりなくて、仕事で礼儀正しくしてるのも本当の私だし、仲良くなったとたんつい失言しちゃうのも、夜中に書いたポエムを朝読んでオエーってなっているのも私なわけで。

そんなことをつらつらと。

何度もそこに行ってしまうのに、求めるものが何もない

メスを求めて嗅ぎ分ける

子ども用のファーブル先生の本を読んでいる。寝る前に少しずつ読み聞かせ。

ファーブル先生の部屋の中に居るたった1匹のメスの蛾に引き寄せられ、何十匹ものオスが飛んでくるんだとか。

まだフェロモンというのが見つかっていなくて「オスはどうやって見えないメスを探し出すのか?」と、ファーブル先生がメスをいろんな箱やケースに隠して試行錯誤する様子が描かれていた。

吸い寄せられるのに何もない 

私の日常にも、オスの蛾みたいなことがときどき起こる。

例えば、全然関係のない生活をしているのだけど、哲学の方に何となく寄っていってしまう。それで哲学関連の本を読むと「あ、ここではなかったのかな」と思う。

でも少しするとまた吸い寄せられるように興味が出て、本を買って「コレジャナイ」感。そんなことが間を開けて何度もある。

何度もそこへ行ってしまう。それなのに、メスの蛾は見当たらない。

繰り返すうちに「私が好きなのは『哲学する』なんだな」と少しヒントが得られたりする。

で、その『哲学する』ってどこにあるんだろう? ふとFacebookのタイムラインに流れてきた「こども哲学」にはすごくありそうだと思えた。

私が求めているメス。つまり私の片割れ。

こども哲学は、これまでのいろんなことよりも近い気がしている。

 

あと、何のつながりがあるかわからずやってきたことにも、すこしだけあるようだ。

例えばポッドキャスト、例えば#電流ランチ

もう少し続けて、他にも広げてみれば、また求めているものに近づくことができるんじゃないか。

もともとある枠にはまる方が奇跡的なのでは

例えば「SF好き」とか「ファンタジー好き」とか「ヘビメタ好き」とかあるけど、既にあるジャンルの枠にはまれる人は本当に幸せな部類なんだと思う。

自分が本当に好きなものなんて、既にある枠にはまる可能性の方が低いんじゃないか。

だから自分で作ったり、何か試行錯誤して見つけるしかない。別に見つけなくても死にはしないので、見つけなくたっていいんだけどね。

自分の好きなものの枠組が存在しない

なぜこんなことを思ったかというと、音楽ね。

「これめちゃ私が好きそう!」って(自分では)明らかなのに、それをカテゴライズする名称がない。

ひとつの曲が気になって「そうかこれは○○というジャンルか」と思って他のを聞いても全然ぴんと来ない。

同じことを何度か繰り返し、気になる曲を集めてみると明確な傾向とか共通点がある。なのにそれらは別のジャンルにくくられていて、バラバラの場所に置いてあるのだ。

 

だから私は、自分が「求めるもの」を自分で作り出さなくてはならないんだなと、思うわけです。

いろんなところに散らばっているものを集めるのか、どこかの隙間に忘れられているものを見つけるのか、ゼロから生み出さなくてはならないのか、それはよくわからないけれど。