Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

体に新たな概念を形作ることはものすごく気持ちがいい

ルートの話、したことあったかな。

あったあった(リンクは記事の最後に)。

 

中学校でルートが出てきたころのことをよく覚えている。

日常生活に置き換えようと思っても、うまくできない。

これは、新たに獲得しなくてはいけない概念なんだと、強く感じた。(当時はもちろん言語化はできていない)

これを獲得しなくては、授業に後れを取ってしまうという危機感もあったのかもしれない。

とにかく計算をして、慣れて、ルートを見た瞬間に「こういうことね」とわかる必要があった。

 

今でもその感覚は続いている。

私の場合、事実や情報を得ただけではすぐに忘れてしまうし、活用することができない。

たくさんそれに慣れて、右や左や上や下から見つめて、その概念が体の中に構築されてから、ようやく活用できるようになる。

 

新しい概念が自分の中にできるときはめちゃくちゃ気持ちがいい。

よく「知的好奇心が強い」と言う人がいる。私もそれなりにあると思うけど、それよりはこちらの欲求のほうが強い。

新しい概念を、体の中に作りたい。

 

体験からは、割とすぐに概念が構築される。

そう思うと、体験とは恐ろしい情報量なのだ。

言葉を通して知ることよりも、情報量で圧倒的に勝る。

概念を作るだけの量が揃うんだね。

 

教養を身に着けたいのも、抽象概念が欲しいからなんだと思う。

「教養」という世界には、私の知らない概念が驚くほど詰まっているはずなのだ。

でも、その抽象概念に到達するためには、具象(具体?)の森を抜けていかなくてはいけない。

それがどうもうまくいかないし、立ち止まって、引き返してしまう。

 

でもやはり私は、抽象概念を獲得したいという思いで、情報をインプットしているような気がする。

数学や物理を頑張ったのも、体に抽象概念をインストールできるからなんじゃないか。

子どもが算数の文章題をやっていて「好きだったなあ」と思いだした。

公式ではなく、概念がまるっと使えるからではないだろうか。

 

ツイッターでそんなことを書いてふと。

私の「抽象概念を獲得したい」という思いは、「わかりあいたい」にかなり近い。

相手は知らない人かもしれないけど、過去、その概念を体に作り出した人と、同じものを持っている。その喜び。

 

なんというか、気持ち悪いような気もしてきたけど、

抽象概念を獲得するという、目指す目標ができたのだから、

その大きな喜びに向かっているとわかれば、具象だらけの苦手な勉強もできるかもしれない。

 

また新たな発見をしてしまった(私だけが感動している)。

 

※ルートの話

emitochio.hatenablog.com

落胆したくないから、期待したくない

期待が叶わないこと、あるよね。

 

ほんとにしょうもない例を出すと、

「今週土曜日空いてたら遊ぼ!」と聞いたとき、

「あ、予定ある」とかだってもう、叶わなかったってことになる。

「んーまだわかんない」とかだともう、最悪! 「暇だったら遊んでもいいよ」感!

 

だけど私は知っている。

そういう時はきっと、「ダメ元」で誘えばいいのだ。「ダメでもともと」だと思えばいいのだ。期待しないってそういうことだと思う。期待しなければ、落胆はない。

 

だけど、仲良くなってくるとつい期待してしまう。相手も私と話したいんじゃない? と思ってしまう。仲良くなる間に、こんなステップを踏む。

 

ダメもとでオファーする(期待値1くらい)

OKだよ!ってなる(期待値1がかなえられてなぜか膨らむ)

別の機会にオファーする(期待値2くらい)

OKだよ!ってなる(また膨らむ)

また別のことでオファーする(期待値3くらいになってる)

断られる(落胆6くらい。なぜか倍!)

 

いつの間にか期待していた、なぜ期待するのだ、期待しなければよかった……と落胆する。

いつだって、落胆するのは期待した結果なのだ。期待さえしなければ落胆を避けられたのに! そんな風に思ってしまい。

 

でもまったく期待しないの難しいし、できたとしてもそれはそれで寂しいし、期待に応えてもらえた時の喜びはひとしおだし。

 

落胆しても、また上がってこれるようにするのが一番いいのかな。

求ム! 最適解!

ことばを尽くすとは

「ほんとうのこと」に対して「ことば」はどれくらいの力があるのだろうか。

 

「ほんとうのこと」と「ことば」は

「リアルなもの」と「スケッチ(または写真)」と似たような関係だと思う。

 

3次元のもの(リアルなもの)を2次元(スケッチ)で伝えようとしたとき、

それを知らない人にはきっと、ちゃんと伝えられない。

立体として伝えるためには、あらゆる方向からのスケッチが必要で、それによってようやく全体のかたちを伝えられる。

 

心で思っていること(ほんとうのこと)は実際に見せられないから、

「ことば」を使う。

ただ、ことばでは一面しか表せない。

だから角度を変えて、あっちからもこっちからも見つめなおして、ことばを尽くす。

だけど、「それ(同じもの)」を持っていない人には、やっぱりなかなか伝わらない。

 

同じものを持っている人には、どうか。

きっと、ひとつのスケッチ(ことば)を見せるだけで、

「あ、同じもの持ってるよ」とわかる。

今度は相手が「こっちからみるとこうでしょ?」と言う。

「そうそう、同じかたち」

それは2面も説明すればたぶんわかりあえる。

 

ほんものを見せることはできないけれど、ことばを尽くせば、同じとわかる。

ただ、ことばはほんとうのことを「まったくその通り」に伝えることはできず、再現されるかどうかは相手にゆだねられる。

 

ことばではほんとうのことを表しきれないけれど、

ほんとうのことを表すにはことばを尽くすしかない。

 

と、そんなふうに思うんだー。