Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

人前で泣いたらどうなったか

先日、「人前で泣いたほうがいい」と言われた。

 

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それはみんなの前でとかそういう意味でなく、信頼できる人に心を開こうとして、涙がこぼれそうになったら、それを押さえずに心を開いたほうがいいということ。

これは私が私を取り戻すための修業であるし、リハビリなのだと。

 

リハビリの経緯

最初は、「人前で泣いたほうがいい」と言ってくれたその人の前で。「泣いてしまっても話そう」と決めていたから、話せた。

 

次に、4人くらいのグループで、泣きそうになりながら(少し顔がゆがむ程度)話したけれど、受け止めてもらえなかった気がした。これはまあ仕方ない。そういうこともあるかな。4人っていうのがよくなかったのかな。

 

次は、1対1でパンの美味しいお店で、サンドイッチを食べながら話した。少しだけ涙ぐみながら。その人は、しんみりと聞いてくれた。相手の言葉は多くはないけれど、じっくりと心に落としてくれた。

 

次に、1対1で話した。たくさん話して、たくさん泣いた。「話してくれて嬉しい」と言ってくれた。私の心がどうすればもっと解けていくのか考えてくれた。本も勧めてくれた。

 

次も1対1で話した。少し泣いた。とても優しく受け止めてくれたけど、その人は私に対して少し壁があったようだ。お互いが心を開けるようになりたい。

 

何十年越しのリハビリなのか

小学校低学年のときに、涙をこらえる術を覚えた。泣くとバカにされる、泣くと怒られる、泣くと感情がばれる、それを避けたいから泣かないようにする方法を覚えた。

泣きそうになったらそれ以上話さない。平気なふりをする。

どうすれば平気なふりができるか。そうだ、表情を固めればいい。表情筋を動かすと震えてしまうからばれる。だから固めるしかない。

そうやってずっと、生きてきた。

 

その時に固まってしまったものを、今ほぐしている。リハビリしている。何十年越しだろう。

 

人前で泣くようにした私に何が起こったか、少なくともその人を通して、世界とつながった気がした。地に足が付いた気がした。たとえよろけても、足場がある。そう思った。みんなはこうして足場を作っているのか。ずっと知らなかった。

 

だけど周りを見てみる。みんな、人前で泣かない。ほとんどの人がその場で正直な感情を出さずに取り繕って生きているように見える。

その人たちは、一生そのまま生きていくのだろうか?

そんなことはないのかな? 今まで私に見せてくれる人がいなかっただけ?

そうなのかもしれない。

それは、私が心を開いていなかったから。

お菓子を渡す人になる

前のエントリーの続き。
「なにごとも放り投げてしまう」というのはすごくわかる。自分でも非常に自覚がある。
だけど、それをどうやって直していけばいいのか。


まず、愛がないとだめだ。ちゃんと置きにいく筋力がないと。
だけど、いま君は愛が足りてないから、ためなくちゃいけない。
「そうだなあ」
その人はしばらく考えて
「そうだ、手土産!」
食べものを、会う人会う人に渡せばいい。
しかも、自分が美味しいと思うやつ。
「『好きに食べて〜』って置いておくんじゃなく、『食べて』って渡すんだよ」
その「食べて」の言い方が面白くて、私は何度もゲラゲラ笑った。
「修行だからね、これは」
と何度も言われた。


お菓子を配り始めると、いろんなことがわかった。
そもそも私は、お土産を渡すのも苦手だった。
照れがあるし、一人一人に配って断られたら嫌だし、嬉しくないと思われたら嫌だ。
でもそれが、放り投げているってことだった。だから一人一人に置きに行く。
それはリハビリ。
簡単にできるようになったら、言葉でもいいんだから、とその人は言った。

 

なにごとも放り投げずに生きよ

前のエントリーの続き。
私の話を聞いてくれたその人は、しばらくして「距離があるんだよね」「冷たい顔の静止画が残るわけ」と言う。
確かに、話の途中で目線を外して外を見たり遠くを見たりするのは私の癖で、そこで相手との距離ができてしまうのかもしれない。
だけど、そうしないと間が持たなくて、落ち着かないのだ。


結論は「恥ずかしい」ということ。
とにかくいろんなことが恥ずかしい。

恥ずかしいから外を見る。恥ずかしいから本音を言わない。
それをまずなくそうということになった。
ただ、完全になくなりはしない。「いいところでもあるからね」と何度も言われた。
でも、そのせいで生きづらいのなら、緩和したほうがいい。
だから少しずつ、恥ずかしさを克服する。


何かの行動ができないときに「傷つくのが怖いから」と私は何度も言った。
これまでだってそういう話を誰かにしたことはある。
そこで「誰だってそうだよ」「そんなこと言ってたら始まらないよ」みたいなことを何度言われたことか。本当に、何度も、嫌ってほど、悪気なくスルーされてきたのだ。
私が人より傷つきやすいとしたって、そんなことは私をはじめ誰にもわからないし、証明のしようがない。
でもその人は私の目を見て「そうかあ」って顔をした。一呼吸おいて、次の言葉を発した。
その「そうかあ」の表情で、私がどれだけ救われたことか。


「こんな風にスルーされて傷ついた、でもそんなもんですよね」みたいなエピソードを話した後、
「ああ、わかった。なんかね、こういう感じなんだよ」
と、その場にあったふせんをポーンと机の上に投げた。
ふせんはテーブルに落ち、少しススーッとこすれて向こうへ進んだ。
「放り投げてるの。ぜんぶ」


筋力がないからだ、と言われた。筋力はあるつもりだったけど、セッターなのにトスが遠くまで飛ばない。それは筋力がないのかもしれない。
筋力以外でいうと、しっかり置くことに対する恐怖。
置きに行ったら、思ったところに置けないがために傷つくかもしれない。でも放り投げておけば「勝手に取ってね」と言えるし、相手に届かなくてもショックを受けなくていい。
期待をしなければ傷つかない。ちゃんと渡すことをしなければ、受け取ってくれないショックもない。


そんなわけで、私がこれまでの話の内容をメモしようと出したノートに、その人は「なにごとも放り投げずに生きよ」とへたくそな字で書きなぐった。


まだもう少しあるけど今日はこのへんで。