Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

そこにしか咲かない花を描く

ずいぶん前から、想いや考えをブログに書くようにしていた。

その方が後から読んで面白い。

ブログは自分のために書いている。

読んでくれる人がいるととてもとても嬉しいけれど、目的にはなかなかならない。

 

近頃、世の中に抽象的な言葉があふれて、全体がボヤっとしてしまっていると感じた。

実態があるから、ボヤっとした描き方にも実感があるけれど、実態を持たないままに抽象的な場所へ行ってしまうと、いろいろとしっくりしないままになる。

パンダを知っている人が、パンダの写真にモザイクがかかった様子を見てもパンダが目に浮かぶけれど、パンダを知らない人同士でモザイクのかかったパンダ写真を交換しても何も伝わらない。そんな感じ。

「あなたはさっきからモザイクがかかったパンダのことしか言ってないけれど、本当にパンダを見たことがあるの?」と聞くわけにはいかない。

 

=====

だから、昨日のことを書いてみる。

昨日は「イカハゲ深夜便」という、Showroomでやるネットラジオを聴いていた。

抽象と具体をぐるぐるしながら、近ごろ抽象へ行ってばかりの私たちを具体に引き戻してくれたのは井川さんだ。カフェマメヒコの井川さん。

「ラジオのFMとAMの違いが分かる?」

「AM的ラジオに必要なのは、エピソード」

「エピソードそれは、PHPである」

PHPってこんな雑誌

www.php.co.jp

読んでみると、エピソードばかり書かれている。

「それは悲しいね」「それはこういう学びがあるね」「それはありがたいね」なんてまとめられることがなく、エピソードの行間に、そこにしか咲かない花が咲いている。

花びらの美しいカーブを、少しめくれた先を、数時間前と違った姿を、そこに映るレースのカーテンの影を、簡単に形容できる言葉はない。それはその花が咲いた状況を、つぶさに描写していくしかないのだ。

こういう感覚を忘れていた、のかもしれない。

 

イカハゲ深夜便」にはお便り作家がいる。

「お便りください」と言われると、作家たちがサクラ的に投稿する。

でもたぶん、リアルな話だ。

それに対して井川さんが、自分のエピソードを話したりする。とてもAMラジオ的。

 

気が付くと朝の4時半で、私はイヤフォンを耳にしたまま、寝てしまっていたことに気が付いた。

 

=====

エピソードとは、具体的だ。具体的な話は、つまらないと思っていた。

それはどうしても、おばさまたち(私もそういう年齢だけど)の井戸端会議を想像してしまう。

それはかなりの確率で、退屈だ。

おばさまたちを観察していると、お互いの話を聞いていない。

いや、正確にはちょっと聞いている。それは自分のエピソードを思い出すための呼び水に過ぎなくて、自分で話したいことが頭に浮かぶと、もうそのことしか頭にない。

 

10のことを話すうちの1つが、相手の記憶をこつんと叩く。相手は、呼ばれた記憶を話す。(以下繰り返し)

 

どうせ全部理解することなんてできないのだから、それでいいのかもしれない。

それは非常にネットワーク的だ。たくさんの小さなネットワークが、一つの要素で別のネットワークとつながる。

 

だけどつながるだけじゃないものを感じ取りたいと思う。

線だけでなく、面で。

目に見えるものだけでなく、余白で。

めったに伝わらないけれど、伝えるためには、その方法しかないのだと思う

 

具体的に記すには、固有名詞が必要だ。

インターネット上に書くには、許可? 仮名? 抽象化? そんなものが必要になる。

だからもしかしたら、抽象化しないエピソードは誰にも見られない日記に書くしかないのかもしれない。

自分のために書くのだったら、それでもいいか。

愛されたい猫

仲の良い女の子(10歳くらい年下)が少し前に結婚して、話を聞いたら旦那さんのことがずっと好きで、自分からアプローチしていったんだと言っていた。

それはそんなに激しくなくて、ゆるやかなアプローチだったようだけど、自分から取りに行ったんだと、驚いた。

 

私はずっと受け身で、「相手の方が私より少し想いが強い」という実感がないと、一緒にいられない。だからなのか、基本的には相手から言ってくれた人としか付き合ったことがない。(私からアプローチしてうまくいったことがないということなんだけど)。

おそらく私の中に愛が足りていなくて(貯蓄できていなくて)、一時でも収支がマイナスになると立ち行かなくなってしまうのだ。少なくとも、そう思っているんじゃないかな。

付き合っていくうえで、当然想いのバランスは変わっていく。それで私の方が強くなってしまうと、どうにかしてコントロールする。そのことにただただ一生懸命だった。

たぶんこの辺りが「放り投げている」っていうことなんだと思う。

(↓過去記事参考)

なにごとも放り投げずに生きよ - Low Kick - 2nd -

 

その子が自分の方が思いが強くても何の恐れもなくいることについて、すごく驚いたし、うらやましかった。

 

で、犬は愛したい、猫は愛されたいんだってツイッターで見た。私、完全に猫だな……。

人前で泣いたらどうなったか

先日、「人前で泣いたほうがいい」と言われた。

 

emitochio.hatenablog.com

それはみんなの前でとかそういう意味でなく、信頼できる人に心を開こうとして、涙がこぼれそうになったら、それを押さえずに心を開いたほうがいいということ。

これは私が私を取り戻すための修業であるし、リハビリなのだと。

 

リハビリの経緯

最初は、「人前で泣いたほうがいい」と言ってくれたその人の前で。「泣いてしまっても話そう」と決めていたから、話せた。

 

次に、4人くらいのグループで、泣きそうになりながら(少し顔がゆがむ程度)話したけれど、受け止めてもらえなかった気がした。これはまあ仕方ない。そういうこともあるかな。4人っていうのがよくなかったのかな。

 

次は、1対1でパンの美味しいお店で、サンドイッチを食べながら話した。少しだけ涙ぐみながら。その人は、しんみりと聞いてくれた。相手の言葉は多くはないけれど、じっくりと心に落としてくれた。

 

次に、1対1で話した。たくさん話して、たくさん泣いた。「話してくれて嬉しい」と言ってくれた。私の心がどうすればもっと解けていくのか考えてくれた。本も勧めてくれた。

 

次も1対1で話した。少し泣いた。とても優しく受け止めてくれたけど、その人は私に対して少し壁があったようだ。お互いが心を開けるようになりたい。

 

何十年越しのリハビリなのか

小学校低学年のときに、涙をこらえる術を覚えた。泣くとバカにされる、泣くと怒られる、泣くと感情がばれる、それを避けたいから泣かないようにする方法を覚えた。

泣きそうになったらそれ以上話さない。平気なふりをする。

どうすれば平気なふりができるか。そうだ、表情を固めればいい。表情筋を動かすと震えてしまうからばれる。だから固めるしかない。

そうやってずっと、生きてきた。

 

その時に固まってしまったものを、今ほぐしている。リハビリしている。何十年越しだろう。

 

人前で泣くようにした私に何が起こったか、少なくともその人を通して、世界とつながった気がした。地に足が付いた気がした。たとえよろけても、足場がある。そう思った。みんなはこうして足場を作っているのか。ずっと知らなかった。

 

だけど周りを見てみる。みんな、人前で泣かない。ほとんどの人がその場で正直な感情を出さずに取り繕って生きているように見える。

その人たちは、一生そのまま生きていくのだろうか?

そんなことはないのかな? 今まで私に見せてくれる人がいなかっただけ?

そうなのかもしれない。

それは、私が心を開いていなかったから。