Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

誰かによりかかれるようになるまで

誰かによりかかることがずっとずっと苦手だった。それはもう、本当に子どもの頃から。

体が健康で、病気をすることがほぼなかったのも関係しているかもしれない。体が弱ったら、誰かに頼るしかない。それを体でわかっている人と、わかっていない人は、ずいぶん違う。だからなのか、誰かによりかかったという記憶があまりない。

例えば、つらい時に誰かに電話するとか、寂しい時に誰かを飲みに誘うとか、苦しいことや決断しづらいことを誰かに相談するとか……。

 

ちょうど1年前、なぜよりかかれないかを説明するブログ(4コマ漫画)を描いた。

emitochio.hatenablog.com

 

1年後の私、つまり今の私はどうなったかというと、寂しいとき誰かに連絡できるようになった。苦しいことを誰かに相談できるようにもなった。

それから、(これは問題視していなかったけど)人前で泣けるようになった。以前は、「泣きそうになることは話さない」という選択をしていた。これも、ずっとずっと前から。でもそれを続けていると、苦しいことが心の中にたまっていく。それが自分をこじらせているのだと知った。今はどうかというと、ある程度は泣けるようになった。

私の何が悪かったのか

昔の私は、やり方が悪かった。よりかかるのは急にできるものじゃない。少しずつ、よりかかるスキルを培っていかなくてはならない。

昔の私は、誰かに話す勇気がなくて、心にためていて、言い出す勇気がなかった。

それなのに、弱っているときにたまたま隣にいる人に、ふと話してしまう。平気なふりをして、冗談めいた口調で、話してしまうことがあった。たまたま隣にいる人は、たまたま隣にいただけで、信頼関係ができていなかったり、その話題にふさわしくなかったり、タイミングが悪かったりする。

そうすると、心ない言葉を言われたり、大したことないと思われたり、受け止めてもらえなかったり、そのまま自分の話題にすり替えられたりする。

相手のそんな返答に、傷ついてしまった私は「もう話すまい」と思う。よりかかろうとしても、よりかからせてくれなかったという経験を何度もしてしまう。

まず、受け入れられる経験をした

でも、今私はよりかかれるようになった。そのためにどんなステップを踏んできたのか。

まず、コミュニティで、受け入れられる経験をした。自分のことを話して、ただ受け止めてもらったり、よいリアクションをもらったりした。頑張って何かの役に立たなくても、優しくしてもらえたり、温かくしてもらえるという経験をした。

また、ジュクジュクした思いも、人に話すことでカラッとして大した問題ではなくなっていくと教わったし、自分でもいくつかそれを経験した。

また、他の人が「信頼できる人に話す」という選択をしていると知った。気が付かない私があほだったとしか思えない。

次に、話してみた

たまたま偶然、困りごとを聞いてくれるという人がいた。ただそこで「聞いてほしいなら聞くよ」という言葉に飛び込んで行けたのは、コミュニティで受け入れられた積み重ねがあったから。

辛いことを話して、受け入れてもらって、たくさん泣いた。というか、話す前から泣いていた。私は何をそこまで抱えていたのだろうか。

「聞いてくれそうな人に、たくさん話したほうがいいよ」「それじゃ、泣いちゃうんですけど」「泣いた方がいいよ」「そこまでして、(話題を)流されたら傷つくんですけど」「そしたら『傷ついた』って俺に言えばいいじゃない」

そこから、信頼できる人、受け入れてくれそうな人、好きな人に、話すようになった。そうしたら、心は少しずつ軽くなった。何かをふるいにかけているみたいに「これが問題だったんだ」とわかるようになった。

必要に応じて、相談できるようになった

ふるいにかけたら、いくつかの大きな塊が残った。今まで気づいていたこと、隠れていたもの、いろいろ。新しい塊も生まれたりしたけど。

それをいろんな人に、相談できるようになった。

信頼できる人を選び、「よりかかりたい」という意思を見せて、よりかかる。

書いてみると、ただそれだけなんだけど、そんなことが、とてもとても難しかった。

「答えを教えてほしい」ではなく「話を聞いてほしい」「そしてできれば、あなたの考えを聞きたい」そんな感じでよいのだと思う。

「こんな話聞かされても困るだろうな……」という考えは、とりあえず捨てる。話すだけで意味がある。相手はきっと、(しょっちゅうじゃなければ)頼られると嬉しい。

いろんな人によりかかる

さらには、よりかからせてくれる人は、たくさんいた方がいい。

同じ人にばかり相談していると相手にも申し訳ないし、堂々巡りになりがち。違う人に相談すると違う視点や情報をくれる。

それからみんな得手不得手がある。得意そうな人に相談すると、道が開けたりする。でも、「こんなこと知ってるの意外!」ということもあるから、まずは信頼できる人に話せばそれでいい。

支えられているという実感

まだまだつらいこともあるけれど、支えられているという実感がある。いろんな人とつながっていて、その人たちが私が立てるようにしてくれている。

私が倒れそうになったら、また「よりかかりたい」と言って、よりかからせてもらう。

そうすると、新しい人をつないでくれて、また支えが増えたりもする。

 

「私、強くなったなあ」と、とてもとても実感している。

自分の中に粘土の塊をつくる

解決したいことがあったらたくさんの本を読むことが多かった。たくさん読んでいると、最初はぶつ切りだった知識や考え方が、徐々につながって、どこかに集まっていく。

それは私の中で徐々に塊のようになっていき、何か新しい考えに触れたときにその塊と接点があるかどうかで見られるようになる。

 

今、そのころの私とは少し変わって、最近はいろんな人に話を聞くようになってきた。

本を読むように、いろいろな人の考え方を聞いた。そうやって、私のために時間を割いてくれる人がいるのは本当に幸せなこと。

話だけじゃなく、実行もする。自分の体で体験して、実感していく。

 

いろいろな要素を集めると、最初はばらばらだったものが、少しずつ塊になっていく。別の意見のように見えたり、ぴんとこなかった意見が、自分の中の塊を通してつながっていく。それはひとつの塊と、周りにふわふわ浮かぶ塵か羽のようなイメージ。

誰かの話を自分の中にできてきた塊から見ると、なんだかおかしい意見のように見えることもある。そんな時は質問する。すると、納得できる意外な答えが買ってくる。納得できたってことは、塊に加えてもいいんだなと、私は粘土の塊に小さな粘土を付け足すように、それを少しだけ大きくする。

 

そういう塊ができると、考えるのが楽になる。心が安定する。迷いが減る。何かを聞かれたときに、同じ言葉でなく相手に合わせて答えられる。

 

その塊を、人によっては哲学と呼ぶし美学と呼ぶし信念と呼ぶ(たぶん)。

それは見方や話す相手によっていろいろな言葉に変化する。

言葉を尽くしてしか伝えられないけれど、言葉が大事なわけではない、というのは、私にとってはこういう意味。

 

そしてその粘土のような塊は、まさしく「あぶらねんど」のように変化できる状態にしておきたい。乾いて固まってしまったら、変われないし何も加えられない。あとは風化するだけだから。

ガソリンはいつ入れるのか(わかりやすく深刻な悩み)

わかりやすく、深刻な悩みを2つ3つ抱えている。

これまでのように「なんだかモヤモヤする」「なんだか自分がわからない」みたいなのじゃなくて、悩み相談とかでよくありそうなやつ。

 

でもここ半年くらいで、ひとりでで抱えてもいいことないってわかったし、人への頼り方も少しずつ学んできたし、頼れる人たちにもすごくたくさん知り合えて、幸いにもとてもいい関係を作ってきた。

だから、何とかなりそうだなと思うし、周囲に頼りつつ、寄りかかりつつ、力をもらいつつやっている。結局は自分で歩いていかなくてはならないから、その体力を温存している。

 

そう、本当に生きていかなきゃいけない時に、誰かにずっと寄りかかりながら進むことは難しい。だって、道は人それぞれだからね。

でもどうせひとりで生きていかなくちゃいけないなら、頼る力のあるうちに誰かに頼って、いざというときのために力を保っておくことが必要なんだ。

頼るにも、パワーがいる。パワーが枯渇してからでは、頼れない。頼れるとしても、相当大変になる。運の力もいる。

 

ガソリンが減ってきたときに、ガソリンスタンドに行くはず。全部なくなってからでは、スタンドへはたどり着けない。長距離を走ることがわかっていたら、先に満タンにしておくほうがいい。

つまり、ガソリンスタンドへ行くにも、ガソリンを使う。それが当たり前だ。

 

そういうのを、ここ半年から1年ですごく学んできた。

生きる力。