Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

広げるとき、絞るとき

バイオリズムってあるよね。

実はよく知らないけど、私の感覚としては、「最近本が読めないな」とか「人に会いたい時期だな」とか、そういうの。

 

私はコルクラボというコミュニティに入ってから、しばらくずっとコルクラボに夢中で、楽しいし幸せだし、そこに時間をたくさん使っていた。

だけど、これは「今だから」なんだろうなと、少し予感していた。

幸せだけれど、それで食べられるわけじゃない。楽しいけれど、永遠に刺激的でいられるわけじゃない。

でも、そういう時期だから、夢中になって楽しもう、ってそういう思いだった。

 

今は、少し距離を置いて見ていることが増えたかも。寂しいけれど、すべてを手に持っておくことはできない。

読むものや参加するものを絞る

楽しそうなものはいくらでもある。だけど、すべてに参加することはできない。

読みたい本はたくさんある。でも、全部を読むことはできない。

 

いつからか、いくら「読みたい!」と思っても、私の今の興味に即していないと、積読になるだけだということが分かった。読んでいる途中で、別のことに興味が向かってしまう。

読み切ることができないのに一時感じた「読みたい!」は、「焦り」なのかもしれない。例えば「他の人が読んでいるものを私も知っておかなくてはならない」とかね。それはまあ、どうせ読めないから手放すことにした。

だから、本を買うときには、「私が『今、興味あるもの』かどうか」「本当に信頼できる人がお勧めしているかどうか」で選ぶ。

信頼できる人、っていうのは、人として信頼しているとかではなく、私のことをある程度わかってお勧めしてくれているとか、今までその人のお勧めにアタリが多かったとか、そういう信頼。

今の興味を整理する

今の私の興味を整理したい。

  • 愛にまつわる感情や心理について(『愛するということ』『恋愛的瞬間』『愛着障害の克服』『存在の耐えられない軽さ』など)
  • 子育てや教育に関すること(モンテッソーリ関係、フィンランド関係など)
  • 受験に関すること(『二月の勝者』など)※これにはちょっと理由がある
  • 英語を理解し、話せるようになること
  • 声に関することやサービス

書いてみて驚いたけど、興味あるジャンルはとても少ないではないか! 

一方で、最近読んだ本はこれとは全然違う。興味のあることを追いかけなくてはだめだ。

私が興味のある「具体」とは

加えて、何かひとつの「具体」を追いかけたいと思った。発酵デザイナーの小倉ヒラクさんを見ていると、発酵に夢中になると同時に、発酵を通して世界を見ている。

私の興味はあまり「具体」には向かない。でも、憧れてやまない小倉ヒラクさんのように、狭い世界の具体を通して世界(本質)を知りたい。

本質につながる具体は、生命を感じるものであるはずという直感。発酵はまさにそのひとつ。例えば受験は、具体でありながら、生命を感じはしない。

たまたま、神楽坂の街を散歩しながら、今興味があることをひとつひとつ思い返してみた。いずれも、なんだか抽象的なのだ。

その中で肌触りが違うものがあった。これだと思った。「植物」だ。結局、すぐさま何かの役に立つものではないけれど、仕方ない。

読みたかったこれは、まだ買ってもいないけど、何かあるという気がしている。

植物は〈知性〉を持っている

とても心に残ったSwitchインタビューの稲垣栄洋さんは、雑草のことを語っていて、植物に関する沢山の本を書かれている。雑草は、森では生きられないらしい。ほかの植物に負けてしまうのだそう。人間の居るところに生えるのが、雑草の生存戦略なのだと。だから、コンクリートを突き破って生えてくるのは、彼らにとっては森から「逃げて」いるにすぎないのだろうと私は感じた。

また、最近、街中の草花をたくさん見るようになってきた。見て、調べてみたりする。

だからなんとなく、このタイミングかな、と思った。

 

稲垣さんのご著書を何冊か読んでみよう。まずはこれがおもしろそう。仏教も結構興味があるんだよね。

なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 仏教と植物の切っても切れない66の関係

 

興味は途中で止まってしまうかもしれない。別のことに向かうかもしれない。

でも、もしかしたら昨日感じた肌触りが、今後の私を少し変えるかもしれない。

『愛の自爆装置』の歌詞の「一体化」について

最近Charaを聴いて(昔はヘビーに聴いていた)、『愛の自爆装置』にこんな歌詞があったことを知る。

「まずは君とボクからはじめよう! 愛を一体化させるんだ」

「したいなあ」

なぜ孤独にみんな慣れていくの?

愛の自爆装置は動き出した

孤独に慣れないで、一体化しようよ、という意味合いがよくわかる。

そしてまずはとても近しい人からはじめればいいのだよね。

 

↓一体化について考えたブログはこちら。

emitochio.hatenablog.com

 

他にこういう歌詞もある。

わからずやのおりこうさんが

愛することに理屈をつけました

『愛するということ』に書かれていることは、わからずやのおりこうさんがつけた、理屈なのだろうか? 

でも私はその理屈によって、何歩も先へ進むことができる。

親友がほしい

f:id:emi_tochio:20191023155847j:plain親友がほしい、と認めようじゃないか。

 

いらないとか作るの大変とか、わざわざ言う必要ないとか、そんなことじゃなくて。

親友がほしいのだ。女性のね。

 

私は女性に甘えるのがとても下手で、これまで仲がよくなるのも男性が多かった。

女性は、仲はいいけど甘えない、という関係性。「話を聞いてほしい」とかもあまりない。

 

それは、私が女性と合わないだけだと思っていたけれどそうじゃなくて、私が勝手に女性をラベリングして、甘えないと決めていたのだ。

だからまずは、仲の良い人を作るとか男女どっちでもいいとかではなくて、女性に対する自分の壁を取っ払って行かなくてはならない。

親友とは何か?

私の、(過去のブログに書いた)一体化したいという思いが究極の欲求なのだとしたら、親友とは、より一体化に近い存在なんだと思う。

 

同一(同じもの)になるということではなく、体は別個でありながら、精神的なつながりを感じて、一体化しようと試みることができる存在。別々のものでありながら融合しようとする存在。

 

かつ、お互いを愛し合い、尊敬し合う存在。

 

真面目に語ると気恥ずかしくなるけれど、まあそういうことだと思う。

 

そのためには、少しずつでも、わかりあいたい。

 

お互いのことをわかりたいと思っていて、わかる能力があるということ。そして、共倒れにならない強さ、論理的な力がいる。

 

お互いに興味があり、引き付け合うことを前提として。私が求めているのは、人として繊細で強いひとなのかなと。