Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

コンピューター会社にいた頃の話(1)

情報工学科を卒業して、コンピューター会社に就職して、SAPという会社のERPパッケージを担当する部署に配属された。自社とは別会社の製品を扱うのだ。

 

それは巨大なERPパッケージで、本当に本当に巨大で、機能が山ほどある。会計、管理会計、販売、在庫購買、倉庫、生産、BASIS(システム側)などなどのモジュールがあって、それぞれを担当するために30万円くらいの講座を受けるのだ。

 

私は最初BASISを担当する部署にいた。Unixのコマンドを叩いたりしてSAPをサーバーにインストールする。手順がたくさんあって、手順通りにやってもうまくいかない時もある。開発機、検証機、本番機の運用の仕方とか、変更管理の仕方とか、そういうものを担当する。データベースのことも知らなくてはならない。データベースにどんなデータが格納されているか知らないけど、ガワだけを学ぶのだ。ちょっと関係ないけど、Oracle Masterの資格も、実践はほぼないまま勉強だけしてプラチナまで取らせてもらえた。(私をやる気のないバカだと思っている先輩に苦笑いされながら「意外とできるんだね」と言われたのを覚えている)

 

BASIS担当としてある客先に常駐した時に、コンサルティング会社の方々が業務アプリを担当しているのを見ることができた。お客さんと要件定義をして、販売や在庫、生産などのやり方を決めていく。コンサルティング会社の人たちと仲良くなって、とても面白そうだと思っていた。

 

自社にもアプリの部署が新しくできると聞いて、なぜか手を挙げた。先輩とかで悩んでいる人もいた。もうBASISの担当者としてベテランなのに、何も知らない業務アプリを始めるのは勇気がいるようだった。私は実は何もわかっていないけれど、今よりは面白そうだなというくらいの感覚だった気がする。手を挙げた数人の中では、一番何も考えていなかったと思う(笑)。

 

希望のモジュールなんてなかったから、他の人が希望しない在庫購買管理を担当することになった。その言葉を聞いてもイメージできないほど、業務なんてわかっていなかった。業務がわからなくても、パッケージがあるから、「SAPでこうなっているってことは、業務はこう動いているんだろうな」という順番で業務を知っていった。

 

いくつか、他の会社がメインで担当しているプロジェクトに、派遣されるような形で入った。2~3社だったかな。最後のプロジェクトはプロマネが自社の中途の人だったけど、それ以外はほとんど違う会社の人だった。

 

しばらくすると自社メインで受注できたけど、そこに在庫購買管理はなかったから、BASIS担当として入った。その後に、クライアントの関連会社で生産管理を中心とした販売、在庫購買、もろもろを合わせたプロジェクトが動くことになり、私が入れることになった。

 

在庫購買管理は私ひとりで、1年目か2年目の後輩がひとりついた(その10年後くらいかな、その子は別の部署に移動してシンガポールへ行って帰ってきてすごく出世するのだけど)。ひとつ前のプロマネに「経験のない人(私)をこんな風にプロジェクトに入れるのはどうかと思う」みたいに言われたことを覚えている。それは的中したのかもしれない。

 

私は田舎のはずれに常駐することになる。近くにコンビニもない。電車も1時間に1~2本とか。プロジェクトメンバー6名ほどで、ひとりは外国人。だだっ広い倉庫みたいな場所に、オフィス用のデスクがぽつんと島になっておいてある。そこで毎日、朝から晩までシステムをいじるのだ。

 

月曜日に行って、金曜日に東京に戻り、土日を暗い気持ちで過ごし、また月曜日に現場に行く。心理状態が最悪でないことにほっと胸をなでおろす。でも数時間後にどうなっているかはわからない。同じプロジェクトの女の子はどんどん痩せていき、別モジュール担当の後輩女子は過呼吸になりプロジェクトから外れて会社を辞め、後輩の男の子も過呼吸になり、男性の先輩はときどき起きられずに音信不通になる。

 

私は過食ぎみになり、7カ月で7キロ太った。20代の多感な時期で、2年前にダイエットに成功して体を鍛えつつ維持していたから、「痩せていることが正義」みたいな価値観の時に食欲が止まらないという恐ろしさと苦しさが並行していた。東京でたまに人に会うと、何も知らない人から「いいもの食べてるんでしょ」と言われて心が泣いた。

 

プロジェクトで議論が起こると(仕事だから当たり前だ)、耐えられずトイレで泣いて、しばらくしてばれないように戻ってくる、ということが何度かあった。

 

あれ、転職のことを書こうと思ったのだけど、人生で一番苦しかった時期のことを書いていたら深みにはまってしまった(笑)。いつもそうなんだ。続きはまた今度。

平気なふりをしない

大切にしたいひととのやり取りで、自分が傷ついたと感じたときにどうするか。

 

・平気なふりをせず、自分の感情(寂しい、悲しい)をちゃんと伝える

・不機嫌(いじけたり、悲しんだり)で相手をコントロールしない

 

これを両立するのがすごく難しい。

感情を伝えたとしても、相手が求めている行動をとってくれないこともある。

それにより、またネガティブな感情(寂しい、悲しい)が生まれる。

それをさらに伝えたら、いじけているようになってしまう。相手は、「どうすればいいのか」という答えを求めてしまうだろう。

 

そこで私はもうひとつ

 

・そこからは伝えることを諦める

 

という選択肢を作ってしまう。

 

感情は、言葉としては伝えた。

だけど、心は満たされていない。だけど、伝えないよりはましだから。

いったん、心が満たされることは諦めて、

でも次のときにも、次の次のときにも伝えづけるしかないのだろうか。

 

私何を不安がっているのだろうか。

広げるとき、絞るとき

バイオリズムってあるよね。

実はよく知らないけど、私の感覚としては、「最近本が読めないな」とか「人に会いたい時期だな」とか、そういうの。

 

私はコルクラボというコミュニティに入ってから、しばらくずっとコルクラボに夢中で、楽しいし幸せだし、そこに時間をたくさん使っていた。

だけど、これは「今だから」なんだろうなと、少し予感していた。

幸せだけれど、それで食べられるわけじゃない。楽しいけれど、永遠に刺激的でいられるわけじゃない。

でも、そういう時期だから、夢中になって楽しもう、ってそういう思いだった。

 

今は、少し距離を置いて見ていることが増えたかも。寂しいけれど、すべてを手に持っておくことはできない。

読むものや参加するものを絞る

楽しそうなものはいくらでもある。だけど、すべてに参加することはできない。

読みたい本はたくさんある。でも、全部を読むことはできない。

 

いつからか、いくら「読みたい!」と思っても、私の今の興味に即していないと、積読になるだけだということが分かった。読んでいる途中で、別のことに興味が向かってしまう。

読み切ることができないのに一時感じた「読みたい!」は、「焦り」なのかもしれない。例えば「他の人が読んでいるものを私も知っておかなくてはならない」とかね。それはまあ、どうせ読めないから手放すことにした。

だから、本を買うときには、「私が『今、興味あるもの』かどうか」「本当に信頼できる人がお勧めしているかどうか」で選ぶ。

信頼できる人、っていうのは、人として信頼しているとかではなく、私のことをある程度わかってお勧めしてくれているとか、今までその人のお勧めにアタリが多かったとか、そういう信頼。

今の興味を整理する

今の私の興味を整理したい。

  • 愛にまつわる感情や心理について(『愛するということ』『恋愛的瞬間』『愛着障害の克服』『存在の耐えられない軽さ』など)
  • 子育てや教育に関すること(モンテッソーリ関係、フィンランド関係など)
  • 受験に関すること(『二月の勝者』など)※これにはちょっと理由がある
  • 英語を理解し、話せるようになること
  • 声に関することやサービス

書いてみて驚いたけど、興味あるジャンルはとても少ないではないか! 

一方で、最近読んだ本はこれとは全然違う。興味のあることを追いかけなくてはだめだ。

私が興味のある「具体」とは

加えて、何かひとつの「具体」を追いかけたいと思った。発酵デザイナーの小倉ヒラクさんを見ていると、発酵に夢中になると同時に、発酵を通して世界を見ている。

私の興味はあまり「具体」には向かない。でも、憧れてやまない小倉ヒラクさんのように、狭い世界の具体を通して世界(本質)を知りたい。

本質につながる具体は、生命を感じるものであるはずという直感。発酵はまさにそのひとつ。例えば受験は、具体でありながら、生命を感じはしない。

たまたま、神楽坂の街を散歩しながら、今興味があることをひとつひとつ思い返してみた。いずれも、なんだか抽象的なのだ。

その中で肌触りが違うものがあった。これだと思った。「植物」だ。結局、すぐさま何かの役に立つものではないけれど、仕方ない。

読みたかったこれは、まだ買ってもいないけど、何かあるという気がしている。

植物は〈知性〉を持っている

とても心に残ったSwitchインタビューの稲垣栄洋さんは、雑草のことを語っていて、植物に関する沢山の本を書かれている。雑草は、森では生きられないらしい。ほかの植物に負けてしまうのだそう。人間の居るところに生えるのが、雑草の生存戦略なのだと。だから、コンクリートを突き破って生えてくるのは、彼らにとっては森から「逃げて」いるにすぎないのだろうと私は感じた。

また、最近、街中の草花をたくさん見るようになってきた。見て、調べてみたりする。

だからなんとなく、このタイミングかな、と思った。

 

稲垣さんのご著書を何冊か読んでみよう。まずはこれがおもしろそう。仏教も結構興味があるんだよね。

なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 仏教と植物の切っても切れない66の関係

 

興味は途中で止まってしまうかもしれない。別のことに向かうかもしれない。

でも、もしかしたら昨日感じた肌触りが、今後の私を少し変えるかもしれない。