Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

不幸に見えているほうが便利

いいことがあってもTwitterや、コミュニティのSlackなどで大々的に話せなくなってきてしまった。それはなぜなんだろうか。

 

そう考えているとまずは「どう思われるか」を気にしているということがある。

 

例えば、私はコロナで逆に業績が良くなったのだけれど、それをTwitterなどで発信すると、コロナで職を失った人、会社をたたむことになった人、そういう人を傷つけるのではないかと容易に想像できる。

 

あと、私が誰かの「よい報告」に嫉妬することもある。「いいなあ、うらやましいなあ」というある程度好意的な嫉妬だとしても、嫉妬されるかもしれない発信を自分がするのはリスキーな気がする。それは自分が嫉妬心が強いからに他ならないので、なんだかしょうもない気もする。

 

「嫉妬されない」をコントロールしようとするのが間違っているのかもしれない。嫉妬するときはするし、嫉妬しないときはしない。人によっても違うし、タイミングによっても違う。私が発信するときに、受け取る人がネガティブな状況かどうか、知るすべはない。

 

また、私は子どもが不登校でシングルマザーなわけだけど、「不幸にみられる」そのことに、最初はとても抵抗感を持っていた。でもある時から気にしないようになった。自分がみじめだと思わなければ、何ともないのだ。

 

ただそうすると、「不幸だと思われていたほうが楽」ということに気が付いてしまった。「おいしい」というやつだ。嬉しいことや運のいいこと、うまくやっていることを発信すると、「不幸ブランディング」が崩れてしまう。なんという恐ろしい考えだろうか。

 

かくして私はそのことに気が付いたので、そんなしょうもないものを手放す時期に来ているのだろうと思う。不幸だと思われることがぬるま湯になるととても楽でいいけれど、なんか自然じゃないし健康的じゃない。

 

私は、実はとてもうまくいっているし、とても幸せにやっている。

小さな夢に近づく

私が活動していることは、なんか軸のようなものがあるのかもしれない。そうとは知らずにやってきたけれど、誰の評価も気にせず好きなことをやっているとこんな風に、どこかでつながることがある。

 

ポッドキャスト「コルクラボの温度」

コルクラボというコミュニティで、ポッドキャスト部を立ち上げて4年目になる。活動するうちに「問いと対話でコルクラボの温度感を伝えていく番組」ということになった。「普段見逃しやすいテーマを通じて、何かを考えるきっかけになってほしい」と思ってやっている。対話は「哲学対話」をやっているつもりだ。

 

アウトプット相談

誰かのアウトプットに関する相談を受けている。無料で90分。

 

戦略には2つあると思っていて、勝負に勝とうとする方法と、勝負をしない方法。私は、勝負をしない方法を勧めたい。勝負に勝つのは、目的が勝負に勝つことだ。でも、勝負をしないなら別の目的が必要。

 

アウトプット相談では、アウトプットしたい理由を「勝つため」だと思っている人の誤解を解きほぐすところから始まる(それでも勝負が目的の人がいたらそちら方面で話を進める)。たいていは、自分と向き合い、自分の中にあるものをいかにして発信するかという話になる。

 

「お題」担当

前述したコルクラボで、私が入ラボした時にはすでにあったしくみ。それは毎週月曜日に「お題」が出ることだ。私はこれをすこぶる楽しみにしていて、毎週欠かさず答えている。3年半ずっと。毎週だ。

 

「問い」というのは自分の中の新しいドアを開ける鍵のようなもの。どの箱を開けたらいいかわからない鍵はちょっとしんどいし、何度も明けたことのある箱の鍵もちょっとつまらない。できれば、開けたことのない箱を開けたい。それは、ちょっとしんどいこともあるけど、初めての自分に出会えることも多い。隠しておいた自分が見つかることもある。自分では同じところばかり開けてしまうから、誰かが渡してくれた鍵を使うのがすごくいいのだ。

 

で、私はこの担当者をしている。お題を出したい人を募り、その人からお題を受けとり、出題者(掲示板に書き込む権限のある人)に渡す。

 

『ずっとやりたかったことを、やりなさい』

昨年、『ずっとやりたかったことを、やりなさい』という本に関する部活をコルクラボで立ち上げた(『ずっとやりたかったことを、やりなさい』実践部)。この本では、「モーニング・ページ」を毎日、「アーティスト・デート」を毎週やることを勧めている(それ以外のワークもたくさん載っているけれど)。それを実行して報告していく部活だ。

 

この2つの活動は、自分の中に潜っていく作業だ。よく、1日のワークショップで自分の内面に気が付くことはあるけれど、それにも限界がある。考えながら動いていかないと、深いところまで到達できないのだ。「こっちがいいかもしれない」と、実際の生活で動く。「そうでもなかった」と別のことを試す。それをやるためには、比較的長い期間が必要で、その間ずっと考え続けなくてはならない。そのために「モーニング・ページ」が必要だ。さらに、自分が枯渇してしまわないように水を与えるのが「アーティスト・デート」だ。

 

この2つは、自分に向かい、自分の中に深く潜っていくことができる活動だと思っている。さらに、誰にも触れさせることがなかったとてもやらわかくて繊細な部分にアクセスできる。過去の私はこの活動によってとても救われたし、自分のいろいろなものに気が付くことができた。私の周りで潜在的にそれを求めている人がいたら、その手助けがしたいと常々思っていた。実際に、それを求めている人ばかりなのだと私は思う。

 

この部活のようなことが、本当はずっとしたかった。いろいろな人が自分のアーティストを見つけて、本当にやりたかったことに向かうアシストをするということ。いくつかある夢の中のひとつ。それが実現に向かっているような気持ち。

 

久しぶりに読み返しているけれど、全ての行にマーカーを引きたいくらい、私の心にグサグサくることばかり書かれている。そこにいるのは過去の私だった。自分のアーティストをひた隠しにして、傷つかないように守って、そんなことに興味がないようにふるまう。

 

アルケミスト』では、本当は夢を持っていたのにあきらめ、胸の内にしまってしまった人が何人も出てくる。主人公サンチャゴのように、本当に欲しいものに向かって冒険をするのは並大抵のことではないのだ。

 

カーズ/クロスロード(カーズ3)』で、主人公マックィーンを応援するクルーズ・ラミレスは、本当は本人がアーティストなのにそれを隠している「影のアーティスト」だった。私はラミレスに自分を投影し、映画館で誰よりもボロボロ泣いた。

 

軸のようなもの

私自身の軸と言うより、私が活動しているものの軸は、誰かの創造性を開放したいってことなんだと思う(本当は全人類だけど)。それを顕在化させるのが「問い(答え)」や「モーニング・ページ」で、水をやるのが「アーティスト・デート」だ。哲学対話は、そのどちらの意味もある。

 

その中で、「モーニング・ページ」の威力はすごい。毎日やるからしんどいけれど、それだけの意味はある。問いに答えて、哲学対話をして「気持ちいい」だけで済ませず、何かを作る(この場合は文章を作る)ことが大切なのだろう。

 

私は社会に対して期待も怒りも少ないタイプなのだけど、「好きなことで食べていけない」という状況や、だれかのクリエイティビティを潰す人には怒りを感じる。だからこの辺りは、私の軸のようなものになっていくのだろう。

 

新年最初のイベント

2021年最初のイベントは、『ずっとやりたかったことを、やりなさい』の読書会。とても幸先がいい。

 

メインPCはデスクトップを使う

メインPCはデスクトップ。それにはいろいろ理由がある。モバイルノートと両方持たなくてはならないけど、モバイルノートは非常用だからね……。

 

まず、モバイルノートに軽さを重視している点がある。ほぼ1kg以内でなくてはならない。それ以上になると外出時の疲労がとてもひどい。そのため、つよいスペックはあまり期待できない。必然的にディスプレイは小さくなる。

 

ディスプレイの問題

メインPCがノートPCということは、ノートPCを1日使い続けるということ。これは、体を恐ろしく酷使している。下向きに画面を凝視し続けていいわけがない。デスクトップも人間の体にそんなにいいわけではないけれど、目線に近い場所にディスプレイを置けるだけでも随分違う。

 

また、私はデュアルディスプレイを使っているので、画面を広く使えるのがいい。たくさんの資料を一度に開いて次々みられるのはとてもいい。

 

これは、ノートPCに外付けのディスプレイをつけても同様の効果が得られる。

 

キーボードの問題

文字を書くのが私の仕事なので、キーボードは一二を争う商売道具だ。だから、タイプ感のいいものがいい。REALFORCEのキーボードを使っていて、それによって気持ちがいいし、タイピングが速いし、ミスタイプが少ない。今はZOOMが多いので静音モデルを使っているけれど、本当はそうじゃないやつを使いたい……。

 

これは、やっぱりノートPCに外付けのキーボードを使っても解決できる。ただ、こうなるとノートPCの本体だけを使うことになる。

 

買い替えの問題

ノートPCが壊れたり、遅くなって使い心地が悪くなったら、買い替えとなる。そのとき、壊れていないディスプレイなども買い替えなくてはならない。だって、くっついているんだから。それってすごくもったいないと思う。

 

デスクトップなら、ディスプレイやキーボード、マウスはそのままで本体だけを変えればいい。

 

もっと言えば、自作PCなどができる人なら、SSDが壊れたらSSDだけを交換すればいい。PCを購入したら5万円でも、ディスクだけなら2万円、とかね。私もこのたび、挑戦しようかなと思っている。

 

値段の問題

ノートPCは、小さくコンパクトにしなくてはいけないために、性能が落ちる。同じ値段の場合、ノートPCのほうが断然スペックが低いのだ。(どれくらい、とかは言えないんだけど)

 

データの不便さをどうしているか

仕事に関するファイルは、すべてDropboxに置いてノートPCと同期している。だから、基本的には困ることはない。PCが壊れても、Dropboxからファイルをダウンロードしてくれば、今までと同じように使える。

 

PCが壊れたんだよ~~

かくして、先週金曜日にPCが壊れたけれども、今日届いたPCでこれを書いている。本体だけを買ったので、送料込み6万5000円くらいで済んだ。これがノートPCだったらいくらかかるのか……。

 

「PCを買った」というと「何買ったの?」と言われるんだけど「ドスパラで買った」というと相手が目をぱちくりさせる感じ。