Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「心の錦」という言葉(引き続き町田康さんの『俺の文章修行』より)

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相変わらず町田康さんのことを追いかけていて(何せこれまで読んだことがなかったので、大量に素材がある)、町田さんの『俺の文章修行』オンライン講座を見つけた。

 

cotogotobooks.stores.jp

『俺の文章修行』は今年の初めに発売されたので、このオンライン講座は当然終わってしまっていて、作品は提出できないんだけど、聴いてみたい! と思って購入した。

 

それを聴きながら、「がーーーーーーーん」と、こんなことがあるの!?!? と、胸の奥に低い低い鐘の音のようなものが鳴り響いた。次を聞くことができず再生をいったん止めて、そのがーんを何度も鳴らすべくその場に座り込んだ。

 

町田さんは、作品を提出した方の原稿を読み、「これが心の錦なんだ」と言った(ここで「がーーーーーーーん」が鳴った)。町田さんの言葉をそのまま書くわけにはいかないので私の理解を別の方法で書くと、作者が深く思考したうえで「こうだよな」と結論付けた(?)ことが、書かれているということ。その作品の場合は主人公の考え(あるいはセリフ?)として書かれていたようだ。

 

例えば村上春樹の作品で「ひげそりにも哲学がある」とか「一人が好きな人間なんていない。ただ失望したくないだけ」といった内容の(引用は正確ではないが)言葉があって、それは多くの人の心を打った。それはぽっと作品の中に現れて、それをテーマとして引っぱるようなことはないんだけど、一定数の人には、そこだけキラキラと輝いて見える。それを「心の錦」と呼ぶんだろうと、私は理解した。

 

で、なぜ低い鐘が鳴ったのかというと、私はこのために小説を書きたいと思っていながら、これを表す言葉を持たなかったから。その言葉を町田さんが突然与えてくれたので、私はものすごい衝撃を受けたのだ(『俺の文章修行』を読んだ時には、そのことだと理解できていなかった、ということでもある)。

 

私は、安田佳生さんとPodcastをやらせていただいる。下記の回で、「なんで小説が書きたいのか」と問われ、このように話していた。

【水曜】UDAUDAトークルーム 第60回「AIに指摘されて... - 安田佳生のブレインスイッチ - Apple Podcast

 

私の回答:

「なんで書きたい……。ちょっと、まあ、あの、それを書きたいと思ったからっていうことなんですけど。

でも、ちょっとあの、最近わかってきたのは、物語を具体で書いていくと、私の本当に大切にしているものが「にじみ出てくる」っていうことですね。

うーん。で、それは言葉にするとすごく陳腐だし、誰でも言ってるようなことだったりするし。あの、誰も聞いてくれないんですよ、別に。私がすごい成功を収めたわけでもないので。

でも、すごい面白い物語に、もし載せられたら、まあ、誰か聞いて……聞いてくれるかもしれない。でもそういうのがなんか、じわっとにじみ出てくるっていうのが、表現したいことなんでしょうね。と思ってます、最近は。」

 

ちょっと補足すると「言葉にすると陳腐」というのは、抽象的な言葉にするととても陳腐だっていうこと。誰かの焼き直しみたいになる(焼き直しじゃなくてオリジナルだったとしても)。だけど、具体の中に入れこむと唯一無二になるか、そう見えるようになるんだと思ってる。

 

「ひげそりにも哲学がある」って、友だちの会話で話したとして、相手が何か感じてくれたとしても「ふーん深いね」で終わるだろうし、それだけをテーマに作品を作ったりすることはできないだろう。でも、(町田さんのように)素晴らしい小説に載せれば誰かの心に残るし、たとえ自分が書けたとしても陳腐な小説かもしれないけど、誰かに読んでもらえたら、もしかしたらその人には伝わるかもしれない。そういう瞬間を、涙が出るほど求めているのか、な、と思う。

 

ある人に心の内を深く聴いてもらっている時に「愛する人と、究極的には一体化したいと思っている。できないのはわかっているけど」と話したことがあって、「やっぱり、えみちゃんは小説を書いたほうがいい」と言われた。つまりはそういうことを、どうにかして、表現したいのだ。

 

それを「心の錦」と呼ぶと大それたことになりすぎるから、町田さんの『俺の文章修行』での別の呼び方、「糸クズ」と呼んで大切にしようと思っている。

こういうことを人に話せない

昨日書いたブログ(↓)は私にとっての世紀の大発見なんだけど(たぶん)、これを、口頭で誰かに話せるかというと、話せない。

 

emitochio.hatenablog.com

 

口にしたとたん、別のものになってしまう。

文字ならいけるような気がするのに、なぜ口頭だとダメなのだろうか。

何か「恥ずかしい」という感情もある(もちろん文章としてブログに書くのも恥ずかしいのだけど、それは過去の経験から「恥ずかしくなんてない!」「恥ずかしいなんて言ったらはじまらない!」と思い込みながら書いている)。

 

「別のものになってしまう」と書いたけど、というより、しょせん伝わりきらないだろうという予測。

「うん、それで?」「だから?」となってしまうのが怖い。

私にとってはとても大切なものなのに、「だから?」という反応をされて、それでも正気でいられるほど私は強くない。

正気を装って「所詮大したことはないんだけどね(汗)」なんてエクスキューズをしなくてはならず、そうしたら、心と体がバラバラになってしまう。

 

口にする場合、何か結論や教訓めいたものが必要になる、気がする。

私にとって、この石ころがとっても大事だって気が付いたんだよ! すごく大事なんだよ! と話しても「そうなんだ」で終わるし、石ころなら「なんか意味ある感じがする」と思われるかもしれないけど「糸クズ」だった場合には「え、あ、そう」となってしまうのではないか。

 

「映画の感想が言えない」っていう私の性質があり、それが自分でずっと謎なんだけど、それは今回のことと近いのかもしれない。

emitochio.hatenablog.com

 

町田康さんが話すYouTubeを毎日いろいろ聞いている。

「自分しかわからん魂を持ってることが、人間はもうたまらなく寂しいんですよね、孤独なんですよね」

と、話していた。

このフレーズに、涙が出そうになった。

 

大切なことを話すのもそうだし、映画の感想もそうだし、それを誰かに伝えたいと思った時に相手に伝わらなかったら、その瞬間私はひとりぼっちになってしまう。

文章なら、とりあえず目の前に人がいないので、その場で拒絶されることはない。

特定の場所で咲く花のように、いつか虫や鳥が見つけてくれたら幸いだけれども、もし見つけてくれなかったとしても、その場で咲いたことは嘘ではないのだから、それでいいような気がする。

でも、誰かに「あなたのために咲いたの」と渡した場合、その人が花粉アレルギーだったり、花に何の興味もなかったら、その花は孤独だし、咲いたことがまるでなかったことのようになってしまう。

 

ひとりぼっちになりたくないから、話せないことを、文章に書くんだろうね。

私の中にたまっている「糸クズ」(『告白』と『俺の文章修行』を読んで)

『告白』の城戸熊太郎のイメージ

小川哲さんの『言語化するための小説思考』を読んで、小川哲さんっていいなあ、素敵だなあ、と思い、小川さんが喋っているYouTubeをたくさん聴いた(私は、目が暇しているときには本を読むようにしていて、耳だけが暇なときに音声コンテンツやYouTubeを聴く)。

 

あるYouTubeで小川さんが挙げていた『テスカトリポカ』はとても夢中になって読んだ本だったので、なんだかうれしかった(ちなみにテスカトリポカは佐伯ポインティの動画で知って、彼がいいと言っているならきっと面白いんだろうな、と読んだら期待通り最高だった)。

 

小川さんがセレクトした本の中に、『告白』(町田康)がランキング1位として紹介されていた。何のランキングか忘れてしまったが、何であれ1位というのはインパクトがある。相当数の小説を読んでいて、目も確かだろう小川さんが勧めるのだから、相当いいに違いない、と、購入して読んだ。

 

初めて読む文体だった。ほんのりとした苦しみが根底にありつつ、基本的には声を出して笑ってしまうくらい面白くて、でも苦しみは根底に流れつつ、ラストに向かうにつれ、とても大きくなり、悲しみの色を増していった。本当に素晴らしい小説だった。

 

その後、町田康さんのYouTubeをたくさん聴いた(正確には、『告白』を読んでいる最中から聴いていた)。作品について触れたもの、小説を書くのは云々、よい文章の書き方などなど。

 

そこで気になったのが、『俺の文章修行』だ。ラッキーなことにAudibleにあった。目が空いている時間には『告白』を読むなか、家事中など耳が空いている時間に『俺の文章修行』のオーディオブックを聴いた。

 

オーディオブックで聴きながらいたく感銘を受け、Kindleでも購入した。もっと熱を上げると紙の本で買うことになるかもしれない。

 

本の中でそれは、「糸クズ」と書かれていた。糸クズの説明と、実例が書かれていた。糸クズをそのままにしていると私たちは狂ってしまうので、文章として外に出す必要がある、あるいは、忘却というルンバが吸い込んでくれる。

 

それで、私は自分の「糸クズ」が心にたまっていたことを思い出した。町田さんの「糸クズ」という言葉によって、大事な金塊のように見えるそれが、深刻な重みをもっていくつもあった。これまでもこのブログなどを通して文章にしてきて、解決しようとしてきたけれど、前に進むたびに、どん詰まりになる。それでもルンバが発動しないように、こうして文章にして書いてきたのかもしれない、と思えた。

 

『告白』を読みながら、主人公(熊太郎)が心の中でうだうだと思っていることがちっとも周囲の人に伝わらないのは、町田康その人の苦しみなんだろうと感じていた。自分のことでなければ、こんなにも緻密に描けないだろうと思ったのだ。

 

町田康さんは『俺の文章修行』の中で、やっぱりそのように書いていた。自分の言ったことが「わからん」と言われ続けてきたこと。その苦しみを、作品の中に入れ込んだのだろう。

 

そして、「雑な感慨」というワード。町田さんは、「こんな世の中保たんよ」という雑な感慨を持っていたらしい。そんな考えを持っていると「世の中がいずれ破綻するんだから頑張ったってしょうがない」という行動に出てしまう、というのだ。『告白』の中では、熊太郎の「殺人を犯した」という過去(これは思い込みや勘違いだったのかもしれないけど)が、「雑な感慨」の代わりとして描かれていた。自暴自棄になり、いくつもの大事な分かれ道で、「俺はどうせ……」という感慨が刹那的な道を選ばせる。

 

町田康さんのように、自分の苦しみを、作品に入れ込んでいく。私は、おこがましいけれど、そういうことがしたい、と思った。糸くずを忘れないようにしたつもりで文章にして、掃除機で吸うことはしなかったけれど、すみっこの方にほうきで追いやっていたのかもしれない。

 

解決しなければ、物語にできないと思っていたのかもしれない。でも、解決しないままだから、物語にできる、というものなのかもしれない。

 

私の「糸クズ」は、書くとしょうもないので、「しょうもないよ」と俯瞰しているふりをしなければ書けなくて、でも、本当は俯瞰できていなくて炎の真っただ中にいる。あるいは、氷水に浸り続けている。それを書ける世界があるのだろうか。それを、やってみたい。

 

町田康さんは、「糸クズ」と書いてくれた。それは高尚なものでもなんでもなく、糸クズなのだ。だけど自分にとっては、隠したつもりでもまたあふれ出てくる糸クズなのだ。