数年前まで「知識は力」ではないと信じて生きてきた。
ここ数年は「知識は力なんだろうなあ」なんて思っているけど、まだ疑っている。
小学校に入ったばかりの頃、公文をやっている子たちは算数の計算がすごく速かった。でも、1人、2人を除いて、もうあっという間に追い越してしまったと思う。知識が力になっていないんだ。知識に甘えて力をつけられなかったということなのかも。
女性と男性は違う。男性は知識勝負で生きているところがある。
雑談でさえ、うんちくを語りたがり、知識をひけらかそうとするのは男性にありがち。
1人ならいいのだが、2人いるとどちらが知ってるか勝負になり、正直周りの人置いてけぼり。本人は「誰も付いて来れない。俺ってスゴイ」という感覚なのかな。少なくとも端からはそう見える。
女性は感性で生きている、人が多い。
本能的に感性が強いのだと思う。
理屈ではない「かわいい!」に惹かれる。
男性はどれだけ機能があるか、どれだけコダワリを持って作られているか、という結局知識勝負になる。
女性が可愛いものに惹かれるのは、子育てをするためだと聞いたことがある。
子育ては本当に大変なので、「可愛いものが大好き!」という心の底からの思いがないと続けられない。だから子どもは可愛く、母は可愛いものを心から愛するのだそう。
「五体不満足」を書いた乙武さんを初めて見たお母さんが「可愛い!」と感激したという話は有名だろう。
「知識は力」というのは反例が多い。
雑学豊富なのに仕事は全然できない人がいる。
猪子さんは知識があると思えないけど、力がある。
「知識は力になり得る」ということなのか。
PJという下着の通販雑誌がある。
何年も前だが、その社長のインタビューを呼んだか聞いたかしたときに、
「女性は、『これ、超かわいいからぜったい売れますよ』とプレゼンしてくる。実際売れる」
「男性は、データを持ってきてプレゼンするが、的を外している」
と言っていた。
女性向けの商品ということで最初からハンデはあるのだろうが、さほど極端な例でもないと思う。
前にも書いたかな?
会社に入って、同期のY子が「大学の時も男の子って本を結構読んでて誰々がどうとか話してて、やっぱり話について行くためにも有名どころは読んだ方がいいなって思った」という。しかも私って意識が高いわ、的な顔をして(偏見です)。
Y子をあまり好きでなかったのもあり、その時の率直な感想は
「ば か じ ゃ ね え の か」
ああ、口が悪くてすみません。
今はもう少しわかる。知識を得るための読書は当然ながらある。むしろ増え続けているのではないか。自分的にも、全体的にも。それに、読書をしていない人が読書の価値をわからないのは当然のことだ。例えば・・・クライミングをかっこいいから、と始める人は多いのかもしれないけど、価値や本質はそこではないに決まっている。そういうものだろう。
最近「情報」と「知識」を使い分けていて、情報<知識となる。知識の方が価値が高い。
情報はそこにあるだけで情報だけど、知識は人の中に入ってある程度消化されないといけない。
そう思えば、「知識は力」と言っていいのかもしれないね。
読書はゲシュタルトを作っていくことだ、みたいなことを誰か言っていたような。苫米地英人さんだったかな。それがすごく腑に落ちた。断片的な情報を集めることではなく、ゲシュタルトを作ること。
ゲシュタルトというのはモノの概念のこと。
ああ、あえて脱線するけれど、子どもが育つ上で驚いたのは、いとも簡単にゲシュタルトが構成できてしまったことだ。
「絵本のゾウばかりを見せていると、本物のゾウを見てもそれとわからない」みたいな文献だかテレビだかを見たことがあって、それを信じてしまった。だから、絵本のゾウさんをみせながら、「この平面的なイラストをまずは『ゾウ』だと思ってしまうのだろうな」と思っていた。
ところが、それぞれを覚えた後に写真を見せて『ゾウさんだよ』と言っても別段混乱している様子はない。イラストのタッチもバラバラなのに、キリンはキリン、ゾウはゾウ。写真であってもちゃんと識別できるのだ。なぜだ。「鼻が長ければゾウさん」と、条件で覚えているわけもない。
それは彼の中でちゃんとゲシュタルトが構成されていたからなのですね。
人間って、生物ってすごい。
「絵本のゾウばかりを見せていると…」と、したり顔(覚えてないけど)で言っていた人は、大人の頭で考えただけなのではないのか? 子どもの力は大人の想像をはるかに超越している。
で、話を戻すと読書とはこの「ゲシュタルト」を作っていく作業に他ならない、というのがその人の理論。
私はゲシュタルト化できれば「知識」になるのかな、と思っている。
イラストのゾウさん、写真のゾウさんは「情報」なのだと思う。
そういう意味で「知識は力」は合っているのかなやっぱり。
「この人、知識はあるけど力がない」と思ったら、その人が持っているのはただの情報なのかも。
ちゃんと考えると結論が出るんですねえ。もちろん自分の中限定だけど。
「走りながら考える」(為末大著)という本が最近出ました(近々読みたい)けれど、私は「書きながら考える」だな。