Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

デジタルの窮屈さを考える

まずは、私はチームラボの猪子さんのことが大好きだというところを前提にしていただき。
そしてあくまでも「今時点では」ということを踏まえていただき。

先日読んだ記事で、猪子さんがこんなことを言っていた。

 これからの子どもには次元をまたいで考えることを本来訓練すべきなんです。でも誰も訓練させようとしない。なぜなら先生も二次元でしか考えてなくて、それがどれだけ重要なことか気づいていないからです。だから僕らは空間認識みたいなことを教えようと、あの遊園地をつくったんです。

ソースはこちら。
http://diamond.jp/articles/-/72814?page=2

これが実はよく理解できなかった。
空間認識? ハテ? 
お絵かきした魚が壁の中の世界で泳ぐ。あれって2次元が別の2次元になっただけではないの?
あるいは、ブロックを並べるとそこにプロジェクターで映された道路や踏切が出来上がる。それも結局、二次元の世界を映し出しているだけなんじゃないの?

あるいはこれのことなのかな? ペーパークラフト
http://kids.team-lab.com/attraction/sketch_town_papercraft/

ちょっと理解ができなかったので置いておきます……。

ただ、そこで思い出したのは、私は未来の遊園地へ行って、デジタルの窮屈さを感じたということ。
ちなみに行ったのはいつだったかな。たぶんお台場で始まってすぐくらい。

小人が住まうテーブル
http://kids.team-lab.com/attraction/kobitotable/
つながる!積み木列車
http://kids.team-lab.com/attraction/trainblock/

これらを自分で触って、子どもが遊んでいる様子を見て、デジタルでつくられたものって、想定どおりにしか動かないっていう大きな制約があるなって思った。(「当たり前だろう」なんて思う人多いかな…)

「小人が住まうテーブル」は、置いたものによってテーブルに写される小物がいろいろと変化するんだと思うけど、大人の頭だと「どういうしくみなのかな?」って考えちゃう。
これを置くとこうなるのね、これを置くと・・・っていう、つくった人の想定をなぞっているに過ぎない。

わが長男は「つながる!積み木列車」に夢中だったけど、最初は積み木を縦に重ねていた(それは想定されていないのでプログラムは動かない)。
そのあと「積み木をこう置くとこうなる」みたいなことは徐々にわかってきたみたいだけど、それよりも積み木を他の子から奪うことに必死だったり、テーブルの上を滑らせたり、積み木同士をぶつけたりして遊び始めた。

自分が色を塗った魚が大きなプロジェクターに映し出されて動き出すのはすごく楽しかったみたい。
だけどその時にも、「線からはみ出したらダメなの?」とか気になる。つまり、「どうプログラムされているか」が大事になってきてしまう。

一番夢中になっていたのはチームラボボール。
http://kids.team-lab.com/attraction/orchestra/
汗だくになってずっと遊んでいた。(考察なしw)

できあがったものを使う私たちにとって、デジタルは窮屈さを伴う。(今のところ)

テレビゲームがそうだよね。ニーズを細やかに汲み取ってどんどん進化してものすごく面白いものを作り続けているんだろうけど、結局作った人の想定内で動くしかない。

カードゲームやボードゲームは、たとえ大人が作ったルールがあったとしても、ローカルルールを勝手に作ってしまったりする。

例えば子どもに「この画用紙に紙を貼り付けてコラージュしましょう」って言ったって、画用紙をはみ出す子もいれば、立体を作って貼り付ける子もいるだろう。
台紙のはずだった画用紙を折り始める子もいるかもしれない。
テーブルにのりを付けてその感触を楽しむ子も出てきたりして・・・。

今後、予想しない状況に対して自動的にプログラミングするようなコンピューターが出現したりしたら、デジタルならではの制約はなくなっていくのかもしれないけれど。

ちょっと思うのは、猪子さんは「作る人」だから制約から自由なんだろうなってこと。
使う側の私たちにとっては、決められたルール以上のことを絶対にさせてくれないという意味で、なかなか手強いものだよね。

私にとっては光が丘公園の方がずっと多次元で、子どもへの影響は計り知れないって思う(今のところ)。
「未来の遊園地」は商業的にはすごく成功したんだろうけど、「子どもにとって」という母目線で言うと、まだまだこれから頑張って欲しい! という感じ。
やっぱりデジタルを自由に楽しむには、作る人になるしかないのでしょうか。

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と、ここまで書いて終わりにしようと思ったけど、たぶん猪子さんの頭の中は物理空間からも自由なんだろうなと思い当たった。

先日、NHKの「ようこそ先輩!」に出ていた川田十夢さんのことを書いたけど、当然猪子さんの回も見ている。
猪子さんは色を塗った魚をスキャンして取り込んだ後、描いた紙をびりりと破って見せた。
「描いた絵が物体から自由になった」
みたいなことを言っていたと思う。
データとして取り込んだことで、紙がなくなっても描いたものは存在する。いままで、描いたものは紙の存在にゆだねられていたけど、デジタルはそうじゃない。

こういう考えをどこからどうやって持ってくるのか(どうやったら子どもがそんな人になれるのか)ということがむしろ知りたいですよね。