私をよく知る人(たぶん1人か2人)には周知の事実なのだけど、
私は小説や映画の「ストーリー」に興味がない。
嫌いなわけではないし、もちろん面白がるのだけど、求めてはいない。
じゃあ何を求めているのか、はなかなかうまく言えないんだけど、結局はディテールなのでしょうか。
それが何なのかは、何年も疑問のまま、解決できていない。
ストーリーって、いわゆるプロットという意味で捕らえている。
誰と誰がいて、どんな関係で、どんな事件が起こって、どうなっていく。
もちろんストーリーを読んだり聞いたりすることで「観たい(読みたい)」ってなることも多いんだけど、
だけどもやっぱり、ストーリーが重要なのか? というとそういうわけではない。
あまり、同じようなことを言っている人に会ったことがない。どうしよう。
村上春樹さんの小説でいえば分かりやすいのかな。
村上春樹さんの作品にはストーリーもあるんだけど、全然重要じゃない。
そう思っているのは私だけじゃないと思う(ホントか?)。
別の観点から言うと、余韻の残る作品が好きだ。
読んだり観たりしたあとに、ずっとその「感じ」が残っていて、ずっとその作品について考えてしまう。
余韻が残るのは、謎を残したまま終わるとかそういう単純なことじゃなくて、
また、ストーリーによるものでもないような気がしている。
今読んでいる本からヒントを得る
今こんな本を読んでいる。
「子どもは40000回質問する あなたの人生を創る「好奇心」の驚くべき力」
教育の本かと思いきやそれだけじゃなくて、「好奇心」について書かれた本。
好奇心ってあまりちゃんと考えたことがない。
というのも、自分自身が好奇心にあふれているとあまり思ったことがなくて、
むしろ知識を増やすことにそれほど積極的じゃないし、
「新しもの好き」じゃないし、流行も基本的には追わない。
だから、好奇心というのを何か別の人の持ち物のように思っていた。
でもこれを読むと、
・検索して簡単に答えが見つかってしまう状況は好奇心を育まない
・人の感情を知りたいという「共感的好奇心」の存在
・質問をするのは人間だけ(ものがしゃべれないうちから親に質問をしている)
・答えが決まっている「パズル」ではなく、さらに考えさせる「ミステリー」が好奇心を育てる
・小説を読んでから「社会的知性」と「感情的知性」のテストを受けると結果が良くなる。プロットをなぞる大衆小説ではなく文芸でないと効果がない
・好奇心は天性のものではなく「状態」である
みたいに、なんか私の思っていたことが次から次へと肯定されて、言語化されていくという、
いまだかつてない体験を味わっている。
(↑はほとんどがうろ覚えとニュアンスで書いているので、なんか間違っていたらすみません)
以下解説。というか私の心の叫び。
・検索して簡単に答えが見つかってしまう状況は好奇心を育まない
→検索もいいけど、本を読むべきだ読むべきだ~ってずっと思っているんだけど、それをちゃんと理論立てて伝えられないジレンマがあった。
・人の感情を知りたいという「共感的好奇心」の存在
→これも「好奇心」と呼んでいいのねそうなのね! という感覚。人の気持ちを知ってどうする、とかじゃなくて、その人の気持ちに成り代わりたい! という願望が私にはそもそもある。
・質問をするのは人間だけ(ものがしゃべれないうちから親に質問をしている)
→子どもが質問をしてくるのは大変に大事だと思っていて、知識より質問の方が大事だとすら思っている。答えが間違っていてもいいのだ。
・答えが決まっている「パズル」ではなく、さらに考えさせる「ミステリー」が好奇心を育てる
→私は「ミステリー」も「パズル」に含まれると思っていたのだけど、そうじゃない「ミステリー」もある。(アガサクリスティは最後に犯人がわかる、という「パズル」要素が強い作品らしく。私が何か違うなと思っていたのはそういう作品だとわかった)
・小説を読んでから「社会的知性」と「感情的知性」のテストを受けると結果が良くなる。プロットをなぞる大衆小説ではなく文芸でないと効果がない
→小説の効能って考えてもよく分からなかったんだけど、あるんだ! あるんだよね!!しかも「ストーリー(プロット)に興味がない」私にうってつけの内容。
・好奇心は天性のものではなく「状態」である
→わかるよわかる! だから子どもの好奇心を育てるように日々(≠「毎日」)心がけている。
かつ、日常的に文章を読み書きしてきた人は、そうでない人より脳が衰ろえるスピードが1/3だとか、
好奇心格差が経済格差を生む(これから読む箇所)とか。
また、「本を読むのがいいことだ」といたるところに書かれていて、たまりません。
読書量と年収の相関関係
これだけ本を読むのが素晴らしいなら、読書量と年収の相関関係が明らかになっていてもいいではないか!
と思って検索したら、すぐにあった。あっさり、いくらでもあった。
たぶんどこかの特集で読んだよね、ということも思いだした。
なのになぜ、人は本を読まないのだろう。
即効性がないから?
直接的メリットを感じないから?
私はありがたいことに、直接的メリットがどうこう考える前に、読みたいから読んでいる。
ネットでは、読書で得られるような気持ち(喜び)は、得られない。
それこそ、好奇心の方向性が違うのだろうか。
ただ、本を読まない人はダメだなんて思わない。
(そういう論調の人はよく目にするけれど)
「仕事できるなー」って思った人が本を読まないってことは多い。
(というか読まない人が圧倒的に多いから)
でも、本当にすごい人はやっぱり読んでいるのでしょうか。
私自身も、読書量そんなに多くないしね。
でもあの、女性は本を読まない人が多いから、読んだらいいと思う・・・。
「考える」と「好奇心」
とにかく私は「考える」ことが好きなんだと、何年か前に気がついて。
考えて考えているこの状態が幸せなんだとわかった。
もやもや悩んで前に進まないのはイヤだけど、何かを知りたくてそれについて考えて、
少しずつでも規則性を見つけたり、普遍性を見つけたりすることに至上の喜びがある。
この行為に「哲学する」と勝手に名前を付けているんだけど、
そもそも、「問い」がなければ考えることもないわけで、
つまりこれは「好奇心」から来るものなのだろうか?
ちょっともう少し考えてみたい。
今回は本当にまとまりがなく、とっちらかったままなんだけど、
「ストーリーに興味がない」という長年の疑問が、すこしだけ、紐解かれたような気がしている。
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追記。
小説を読んで自分ではない主人公になりきることで、
何かに対する偏見を減らしたり、多様性を重んじたりするという効果もあると思う。
私は小説を通して、
嫉妬深い女性や、既婚女性に恋してしまう男性や、何か一つものもを偏愛する人など、
自分では理解し得なかったいろいろな人の気持ちになった。
それは自分と文化や考え方が違う人の気持ちを少なくとも2時間は疑似体験することになり、
自分と価値観が違う人が現実に現れても、その人の気持ちを想像することに繋がっていると思う。
映画だと、少し弱い。
映画は気持ちを明確に描写することはしない。それはちょっと野暮な気もする。
表情で読み取らせたり、音楽で伝えたりする。
小説だと事細かに教えてくれるので、自分に同じような経験がなくても、
感動したり悲しんだりすることができる。
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追記。
小説を読んで自分ではない主人公になりきることで、
何かに対する偏見を減らしたり、多様性を重んじたりするという効果もあると思う。
私は小説を通して、
嫉妬深い女性や、既婚女性に恋してしまう男性や、何か一つものもを偏愛する人など、
自分では理解し得なかったいろいろな人の気持ちになった。
それは自分と文化や考え方が違う人の気持ちを少なくとも2時間は疑似体験することになり、
自分と価値観が違う人が現実に現れても、その人の気持ちを想像することに繋がっていると思う。
映画だと、少し弱い。
映画は気持ちを明確に描写することはしない。それはちょっと野暮な気もする。
表情で読み取らせたり、音楽で伝えたりする。
小説だと事細かに教えてくれるので、自分に同じような経験がなくても、
感動したり悲しんだりすることができる。