メスを求めて嗅ぎ分ける
子ども用のファーブル先生の本を読んでいる。寝る前に少しずつ読み聞かせ。
ファーブル先生の部屋の中に居るたった1匹のメスの蛾に引き寄せられ、何十匹ものオスが飛んでくるんだとか。
まだフェロモンというのが見つかっていなくて「オスはどうやって見えないメスを探し出すのか?」と、ファーブル先生がメスをいろんな箱やケースに隠して試行錯誤する様子が描かれていた。
吸い寄せられるのに何もない
私の日常にも、オスの蛾みたいなことがときどき起こる。
例えば、全然関係のない生活をしているのだけど、哲学の方に何となく寄っていってしまう。それで哲学関連の本を読むと「あ、ここではなかったのかな」と思う。
でも少しするとまた吸い寄せられるように興味が出て、本を買って「コレジャナイ」感。そんなことが間を開けて何度もある。
何度もそこへ行ってしまう。それなのに、メスの蛾は見当たらない。
繰り返すうちに「私が好きなのは『哲学する』なんだな」と少しヒントが得られたりする。
で、その『哲学する』ってどこにあるんだろう? ふとFacebookのタイムラインに流れてきた「こども哲学」にはすごくありそうだと思えた。
私が求めているメス。つまり私の片割れ。
こども哲学は、これまでのいろんなことよりも近い気がしている。
あと、何のつながりがあるかわからずやってきたことにも、すこしだけあるようだ。
もう少し続けて、他にも広げてみれば、また求めているものに近づくことができるんじゃないか。
もともとある枠にはまる方が奇跡的なのでは
例えば「SF好き」とか「ファンタジー好き」とか「ヘビメタ好き」とかあるけど、既にあるジャンルの枠にはまれる人は本当に幸せな部類なんだと思う。
自分が本当に好きなものなんて、既にある枠にはまる可能性の方が低いんじゃないか。
だから自分で作ったり、何か試行錯誤して見つけるしかない。別に見つけなくても死にはしないので、見つけなくたっていいんだけどね。
自分の好きなものの枠組が存在しない
なぜこんなことを思ったかというと、音楽ね。
「これめちゃ私が好きそう!」って(自分では)明らかなのに、それをカテゴライズする名称がない。
ひとつの曲が気になって「そうかこれは○○というジャンルか」と思って他のを聞いても全然ぴんと来ない。
同じことを何度か繰り返し、気になる曲を集めてみると明確な傾向とか共通点がある。なのにそれらは別のジャンルにくくられていて、バラバラの場所に置いてあるのだ。
だから私は、自分が「求めるもの」を自分で作り出さなくてはならないんだなと、思うわけです。
いろんなところに散らばっているものを集めるのか、どこかの隙間に忘れられているものを見つけるのか、ゼロから生み出さなくてはならないのか、それはよくわからないけれど。