小さなころは、もうありとあらゆることに出しゃばっていたような気がする。
だけどいつからか出しゃばることはみっともないと思うようになった。
だけど、「いつからか」なんて本当は嘘っぱちで、実はおそらくあれだろうな、という経験がある。でもまあ、ここでは省略する(本題になかなか入れなくなってしまう)。
ただ、たいていの人は似たようなことを思っていると思う。小学校高学年くらいから「みっともない」と思って自分を抑えるようなこと。私はその気持ちをとても美しいと思ってはいるのだけど。ときどきいろいろなことの邪魔になるよね。
自分をマイノリティと思うか?
最近、みっともないと思う気持ちを放り投げて「やっちゃえば?」って思うことが多い。
先日、こども哲学の勉強会に出席して、大人同士で哲学対話をした。話の流れが「自分をマイノリティと思うかどうか?」みたいなところになり、私はこう答えた
「たぶん自分をマイノリティと思ったことはない。学校では先生たちの期待に応えるのがまあまあ上手いほうだったし。ただ、出しゃばってはいけない、だいたい普通くらいにとどめよう、と思って行動のスピードを抑えたりするようなことは往々にしてあった。つまり『ふつう』を目指すというか。でも最近はそれを気にせず『一番張り切っててもいいじゃない』と思えるようになった」
そこで「なんで最近は気にしないようになったのですか?」と聞かれて、うーんやっぱりコルクラボなのかなあ、と思った。
コメントが相手に安心を与える
出しゃばれなかったのは、出しゃばることで受ける不利益があったからなんだと思う。
周囲に引かれたり、「痛い人」と思われたり、もろもろ。
だけど、コルクラボで最初に学んだのは「私のコメントが、誰かの安心安全を作っている」っていうこと。
それまで私は、SNSのコメントを積極的に書く人は「自分も書いてほしいから先に与えている」のだと思っていた。目をつむって「いいね」を押すような・・・。
そういうのに拒否感があったから、誰かへのリプライやコメントは、すごく書きたいときにしか書いていなかった。しかも、私のほうがコメントが多かったらちょっと恥ずかしいような寂しいような気もしていた。
だけどそうじゃない。
自分の利益のためじゃなくて、コメントすることで、相手に安心を与えることができる。
それは価値観がすごく変わったことだった。
さらけ出す人えらいぞ、というスタンス
コルクラボでは、「さらけ出す」ことが良しとされている。
人に言えないことを話したり、やりたいことをやったり、さらにはやりすぎたり・・・。
さらにみんながお互いの安心安全を確保しようと考えているから、さらけ出した人に対してあたたかい。
だからそこで私は「出しゃばってもいいんじゃね?」と思えるようになっていて、それは踏み出したときに誰かが受け止めてくれるだろう、という安心感があるんだと思う。
たとえ受け止めてくれなくても、引きはしないんじゃない? とかそういう。
安全ネットのつもりがそうじゃなかった
私がこれまで、出しゃばらないように抑えたり、目立たないように気を付けたりしていたのは、きっと安心安全がなかったからなんだろうな、って思った。
安心安全な場を持っている人は、これまでにちゃんと作って来たか、取りに行っていたんだろう。私は「そんなものなくていいのでは」とか言って強がって、作る努力をしてこなかったんじゃないか。
最後の一人になるのは嫌だから、「いつでも抜けられるよ」みたいなスタンスを装う。
つけこまれるのが嫌だから、「全然依存なんてしてないよ」という振りをする。
先を見て安全ネットを張っていたつもりが、実は自分を安全ではない場に追いやっていたなんてね。