Low Kick - 2nd -

栃尾江美のブログ。たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「わかりあう」というマスターキーワード

キーワードって、鍵となる言葉、という意味なのかな。

何でも開けられるワードだったら、「マスターキーワード」でいい?

 

先日書いたこのブログ。もう1週間以上も経っていた。

emitochio.hatenablog.com

「とっちーはわかりあえる人を求めてるのかもね」と言われた。

何この人エスパーかな?

って感じたくらい「はい、求めてます」って思った。

と、書いた。 

 

 

今まで私は好きなものの統一感がわからなくて(ただ、「感じる」「においがする」というだけで判断していた)、なんかいろんなことをやっているね、と言われていた。

本質的なものが好きなのかな、と思っていた。だけど全部をそれで説明できない。誰かとくだらない話で笑いあっているのも好きだから。

「わかりあう」を当てはめる

好きなものに全部、「わかりあう」を当てはめてみた。

それはもう、恐ろしいくらいに全部はまった。

ひとつひとつ、鍵を開けるたびに、私はこのために生きてきたのかもしれない、って、涙がこぼれそうになる。

音声コンテンツが好き

これはもう完全に、テレビよりラジオのほうがわかりあえる。

話しているパーソナリティのことも、リスナーのことも。

SWITCHインタビュー達人達が好き

何かを突き詰めてやっている人同士が話す。

深いところで考えている人たちだから、どこかでつながってわかりあう瞬間がある。

そこがもう、たまらない。私もそれをわかったとき。すごく興奮する。

具体より抽象が好き

今日何をしてこれをして、あれとこれが好き、では、わかりあえない。

抽象化して、好きな傾向とか好きな理由とか、そういう話をしないとわかりあえない。

具体でわかりあうのは、大変時間がかかりすぎる。抽象で伝え合えば、わかりあえるスピードが速まる。

哲学対話が好き

抽象化された話。自分と相手の考えを交換して、ときにミックスして、違うものに変えたりもして、わかりあう。

同じ意見にならなくても、あなたの考えも、わかるよ。あなたも私の考え、わかるでしょう? という感じ。

ブログには考えや感情を書きたい

ブログに、事象とか、教えとかを書くことは気持ちが進まない。

考え終わった答えを教えても、何もわかりあえない。

だから、今の気持ちや感情、考えていることを書く。

その人が同じ気持ちを持っていたら、わかりあえるかもしれない。でも「教える」スタンスは、わかりあえないのだ。

ツイッターにはいろんな自分を書きたい

これは、「わかりあう」というよりも、「わかってほしい」のだろうな。

たくさんのツイートから、ひとことだけでも誰かに届けば、誰かと私はわかりあったことになるのではないか。

今日の140文字

togetter.com

平日毎日140文字ぴったりでツイートしている。

これは、私の思い、私の気づきを書いている。これに何か感じてくれた人がいるなら、わかりあえたといえるのではないか。

私の心の中の琴線と、あなたの琴線は同じだったんだね、ということ。

人と仲良くしたい・人が好き

一人でする仕事なのに、人が好き。

わかりあいたいからなのかな、と思う。

その人の特徴を知るのが好き、必ずしも合うタイプじゃなくても、ここがいいね。とわかる。相手も私に興味があって、私をわかってくれるととてもうれしいし、快適。

ものより人が好き(インタビューが好き)

インタビューは、その人がわかる。私はインタビュー中に自分のことをあまり話さないタイプのライターなのだけど、その人の哲学美学がわかれば、わかりあえた気持ちになる。読者とも同じ場所で、わかりあいたい。

お笑いが好き

「おなじところで笑う」って、めちゃくちゃわかりあうってことだと思うんだよね。

文字が好き

今日のコルクラボで中野さんが言っていた。

「生物が情報を残すには遺伝子しかなかった」

「人間の脳ができて、記憶で残せるようになった」

「もっと発達して、文字で残せるようになった」

生存戦略として考えた時に、文字情報は遺伝子の代わりになるのでは? という仮説(?)なのかな。

 

言葉なら、伝えられる。

文字なら、情報を残せる。

情報を伝えて、わかりあうことができる。

 

そういうレベルのわかりあいかたを、私は求めているのだと思う。

 

だから、ポッドキャストだし、文章なのだ。イラストや映像じゃなく。

理解するだけじゃなくて、心をわかりあいたいから。

小説を書きたい

ストーリーが好きじゃないのに、小説を書きたい。なぜなのか。私は何を表現したくて、何を伝えたいのか。

言語化できていなかったけど、なんとなくわかっていた。

ちょっとだけ、感情が横にズズっと動く感覚。

感動させようとするんじゃなくて、たとえ淡々としいても誰かと同じ感情を覚える。

 

言葉を変えれば、そういう「わかりあいたかた」がしたい。

これまで私は小説を読んで、作者や別の読者とそういう「わかりあいかた」をしてきたから。

 

だからそれがわかれば、小説でなくてもいい。

同じ感情を、おなじようにわかりあう方法がもしあるなら、ほかの手段でもいい。

自分を知りたがってばかりいる

※ここは追加したもの。

自分の気持ちを知りたくて、気持ちの動きとか欲求とか、とにかく知りたくてそんなことばかり書いているこのブログ。

ひとりよがりですごく子どもっぽいって思っていて、だけどそうしたいんだから仕方ないなって思いながら書いていた。

ただ今思えば、自分を知ることで、だれかとわかりあえる。

わかりあうっていうのは、自分にしかないと思っていた感情の光り方を、相手の中にも見つけるってことなんじゃないかな。

自分を解像度高く知ることは、誰かとわかりあうことの前提条件になるんじゃないか。

「つくる」は自分に正直になること

※ここは追加したもの。

ひとりで何かを作るのが好き。

それは、自分に正直になれるからなのかもしれない。クッキーやさんのサクちゃんのツイートを見て思った。

自分に正直になり、自分を知りたい、そのひとつが、「つくる」ってことなのかな。

だからみんなでやると、流されてしまう。ひとりでつくり、自分を見つめたい、そういうことなのかもしれない。

その結果やっぱり、誰かとわかりあうことの助けになる。

電流ランチ

※ここは追加したもの

「電流ランチ」という活動をしている。あまり話したことのない人でも、がんがんランチに誘って語り合う。ランチをして、話をすると、お互いに電流が流れるような感覚にとらわれる。

私は話の抽象度を適度に(私が気持ちいくらいに)上げるようにしていて、それがお互いに興味のある方向でピタリとうまくいくと、めちゃくちゃ電気が流れる。

これは「わかりあう」ということだったんだと思う。わかりあうとは、お互い(きっと、相手も)の心に電気が流れることだと思う。

「わかりあえない」ことへのショックが大きすぎたんじゃないか

どうしてこんなことを知るのに、こんなにも(40年以上)時間がかかってしまったのか。

 

子どものころから、わかりあうことはかなりあきらめていた。

それはもしかしたら、ほんとうにもしかしたらなのだけど、わかりあうことへの期待と欲求が大きすぎて、うまくいかなかったときに傷つくことが多かったんじゃないだろうか。

 

わかりあえなくて傷ついたことはたくさん覚えている。

だから、わかりあえるわけなんてない、とふたをしてしまったのかもしれない。

 

「友だちなんてたくさんいなくていい」

「別に嫌われたっていいし」

そんな風に強がっていた時期もあった。

 

でも、人と仲良くなると嬉しくて、人を知ることができると楽しくて。

なにかを作らなくちゃいけないのにサボってる、みたいな気持ちになることもあった。

だけどちがった。

人と話してわかりあう。ゲラゲラ笑ってわかりあう。

そういうのを求めていたんじゃないかしら。

 

本当にこれがマスターキーなのか。

これから、もっといろんなところを開けて確かめてみる。

 

※ただし、私が好きなもののなかで「ものづくり」は、このマスターキーがはまらない気がする。ものづくりは、本当にただ、作りたくて作るから。作るという欲求。

 

最後に:一連の感動とか発見とか驚きとか叫びとかのツイッターまとめ