「わかりあいたい」というキーワードを手に入れた私にとっての「物語の意味」を考えてみたい。
ひとことで言ってしまうと「感情」だ。それをつまびらかにするための、物語。
そう言うと、もしかしたら簡単すぎるかもしれない。でも「わかりあいたい」私にとっては、切実なものだ。
物語は、文脈と言い換えてもいい。長い長い文脈。
文脈を知らないと、感情をわかりあえない
例えば、道端で犬がぐったりと横たわっていたとする。生きているのか死んでいるのかわからない。
それを見た誰かの感情をわかろうと思ったら、文脈から語らなくてはいけない。
・子どものころから犬を飼っている
・おばあちゃんが犬を飼っていた
・犬を飼ったことがない
それぞれの人で、湧き上がる感情はまったく違う。そして、それを言い表す適切な言葉は用意されていない。
子どものころから犬を飼っている人の中でも、
・今飼っている犬は若くて元気
・最近犬の体調が悪く、そろそろ寿命かもしれない
・つい先日、長年飼っていた犬を亡くした
のそれぞれで、まったく違う。感情はすべて、異なる形で、異なる光り方をしているのだ。
それをできるだけ、解像度高く、わかりたい。わかりあいたい。
それを的確にわかりあうためには、長い長い文脈が必要だ。
感じている人と、犬と、それにまつわるさまざまなひとやこと。
関係性やそれまでの思い、環境や、体験、トラブル、もろもろ。
それをできるだけ精密に伝えるために、物語はある。
少なくとも私にとって、その部分が大きな意味であることは確か。
まだ言葉にされていない気持ちの数々
『翻訳できない世界のことば』という本がある。
世界には、その文化でしか大事にされない感情や状態、ものやことがある。
言葉のあるものがすべてではないのだ。当たり前だけど。
例えばこれ。
あんなに好きだったのに、なんだか冷めてしまって、もうあのキラキラした感情には戻れない。そんな気持ちに名前を付けている国があるのだ。
私は、本を読んだりしたときに感じる、何とも言えない気持ちがある。
それは日本語で言い表せないから、この本に載っていたらいいな、と思った。
だけど、見つからなかった。世界中のどこにもないのかもしれない。
だからそれを表したいなら、物語を紡ぎ、言葉を尽くすしかない。