Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

わがままを言うと見捨てられる

「わがままを言うと見捨てられる」という感覚があるようだ。

 

久しぶりに、言葉を頭に浮かべるだけで涙があふれる感覚。

2年ほど前に「わかりあいたい」という欲求を見つけたときと似ている。

これは何か、心の深いところにあるものだという直感。

 

私の周りにいる多くの人は私をそうは思わないだろう。

わがままを言いながら、好きなことを好き勝手やっている人に見えるだろう。

でもまあ、人からどう見えるかはひとまず置いておこう。

 

好きな人に対して怒る感覚がわからない

昔から不思議だった。

恋人や好きな人に対して本気で怒る人は、なぜ怒れるんだろう?

好きな人なのにどうして本当に頭にくるんだろう?

失うことは怖くないんだろうか?

 

私が本当に怒るのは、別れを覚悟した時だった。

(怒るっていうより、言いたいこと言ってしまえ、という感覚かな)

怒っても愛してもらえる、という実感がないのかもしれない。

 

欲しいものを欲しいと言わない子供時代

父から聞いたエピソード。私はすっかり忘れていたけれど。

 

「おもちゃ売り場に行きたいというので、江美と一緒に行った。『何も買わないよ』という約束をして。おもちゃを見ていて、すごくほしそうにひとつのおもちゃを何度も手に取っている。でもひとことも『ほしい』と言わない。たまりかねて『買ってあげようか』と言ったら驚いて、すごく喜んでいた」

 

これを聞いただけで、私は涙があふれてしまった(そして書いている今もぼろぼろ泣いている)。

何歳くらいかわからないけれど、おもちゃ売り場に行くくらいだから大きくても小学校低学年くらいだろう。

そんな子どもが、欲しいものを欲しいと言わずに我慢していたのだ。

ちなみに、父は約束を破ったからといって怒るようなタイプの人ではない。怒られる恐怖からではない何かが、私を抑制していたのだ。

 

自分の欲求を言えない

今も、相手の事情を勝手に考えて、勝手に自分の欲求を抑制してしまうことが多い。

それは取るに足らない欲求だったら問題ない。

たとえば、パスタよりピザが食べたかったとか、あっちの席の方がよかったとか、そういうやつ。

 

でも、もう少し自分の話を聞いてほしかったとか、もう少し一緒にいたかったとか、そういうウェットなやつは、積み重なると問題なのかもしれない。

仕事が大変なんだなとか、話したい事情あるよねわかるよとか、勝手に事情を推測して、自分の欲求をなかなか言えない。

 

どうして、「こうしてほしい」と言えないのだろうか。

 

わがままを言うと愛されなくなる

わがままを言うと、相手が私に対してすっと冷たくなることがある。

特に、相手に余裕がなかったり、事情があるときはそうだ。

それは普通の反応だし、別におかしくない。

だけど私は不用意に傷ついて、なぜだか忘れられない。

 

さらには、そこで私への愛情が薄らぐと勝手に思ってしまう。

「マイナス3ポイント」みたいな感じ。

それが重なると、私に対する愛や興味がすっかりなくなると思っている。

誰も、わがままを言う人とあえてコミュニケーションを取りたいとは思わないだろう。

 

余裕があるときは「頼ってくれて嬉しい」と思うかもしれない。

でも、余裕がない時や事情があるときに、それを喜ぶ人はとても少ない。

 

愛されなくなると見捨てられる

私だけが相手のことを好きで、相手が私をどうでもよくなってしまったら、

それは「見捨てられる」ってことだ。

 

わがままを言うと見捨てられる。

なぜかそう思っているのだ。

 

簡単に考えれば、家庭環境は大きいのかもしれない。

「わがままを言っても見捨てられない」という感覚を育てるのは

家庭でしかできないんじゃないだろうか。

 

自分の子どもに対しては、わがままを言える。

子どもは私を見捨てない。それは、私がいないと生きていけないからだ。

だけど、大きくなったらどうなのだろう。

見捨てられるかもしれないと思ってしまうのだろうか。

そんなのいやだな。