怒りや悲しみについて、いろいろと本を読んだ。
内省についても、本を読んだり話したりして、ずいぶん考えを深めてきたつもりだし、人間の難しさについて以前よりは理解が進んだ。
怒りは何かの二次感情だという。
中土井僚さんという方(『U理論』の翻訳者)が以前お話されていたことでとても印象的な内容があった。
ジョン・ゴッドマンによる「関係の4毒素」というのがあるらしく
・相手への非難
・相手への侮辱や見下し
・自己弁護や自己防衛
・逃避
トラブルがあるときにこういう行動を取ると、相手とうまく関係性が築けないという。
上記のような気持ちが生まれたときに、それを内省して深掘りして、自分の「痛みと願い」を知る。
それが表れてから、相手に伝えるといい、というのだ。
私には、「寂しさ」「悲しみ」が常に痛みとしてあると思っている。
「何かを伝え合ってわかりあいたい」みたいなものが、おそらく願いとしてある。
非難もしない、侮辱も自己弁護も逃避もしないで伝えるとなると、
「私はあなたとこんなことがしたい。それができなくてとても寂しい」
と伝えることになる。相手を責めずにこれを言う。
(つまり「あなたがそうしてくれない!」みたいなことを言わない)
これは、言うほど簡単ではない。
とても強い感情(痛み)があるわけだから、これを伝えるときは痛み(傷)をえぐっているようなものなのだ。
一度できたとしても簡単にはならず、そのたびにとても苦しい。
簡単であるくらいなら、そもそも痛まないからだ。
ただ、痛みと願いがわかって、それを相手になんとか伝えて伝わり、相手もわかってくれたとしても、改善できないことがある。
ずっと痛みを持ち続けることになる。
悲しみや寂しさを背負った子どもを見ると、それにより乱暴になったり、引きこもりになったり、ゲーム依存になったり、非行に走ったり、する。
そうするしか、自分を守るすべがないからだ。
でも私は大人なので、そんなことはしたくない。
どうすればいいのか、まだよくわからないでいる。
痛みを浄化できないと、最初の、二次感情であるはずの「怒り」も浄化できない。
痛みまで突き詰めたのに、「怒り」が心の中に残っていることに驚く。
何か、無理をしているのかもしれない。