Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

自分の軸を考えようとして複雑すぎて途中であきらめた

昨日、ポッドキャストの収録があって「自分の軸」について思いをはせた。

切り取る角度で全然違うので、なかなか「これ」と決めるのが難しい。

そもそも「軸」とは何かというと、何だろう(笑)。

決断するときのよりどころになるもの、と考えるともう少し考えやすい。

 

「欲求」「譲れないもの」「恐れ」「やりたくないこと」「避けたいもの」とか。

仕事で考えるのか、人生で考えるのかによっても違う。

でも何かしら、言葉にしていないだけで、私たちは判断の軸を持っている。

 

欲求は「一体化したい」

「欲求」から話すと、私は「一体化したい」になる。

 

emitochio.hatenablog.com

私のほぼすべての行動は、誰か(あるいは世界)と心(あるいは体)で一体化したいというところにつながる。本当に一体化することはできないから、そこに至ろうとするプロセスの話になる。私が求めている「つながり」は、一体化するためのプロセスだったり準備だったり、そのものだったりする。たぶん。

 

やりたくないこと

仕事で「やりたくないこと」でいうと、「ネットで調べて記事にしてください」という仕事は受けない。それはどうやってもかなりグレーゾーンに行くし、グレーを避けて記事を書くなんてことは楽しくないから。

 

「見捨てられる」が恐れ

私が心の奥で抱いている「恐れ」は、「見捨てられる」ということ。

以前「コルクラボの温度」というポッドキャストで話したけれど、私は「所属する」ことに結構魅力を感じている。

corklab-ondo.com

それは、基本的には「見捨てられる」ことがないからかもしれない。仲間外れはあるけど、サクッと、他意なく、「興味が薄れた」とかの理由で、見捨てられることは、ない。

なぜそんな恐れを抱いているのかと言うと、おそらく幼少期の体験に端を発しているとは思う。あと、もともとの生まれ持った性質もあるとは思う。

 

「恥」を避ける人生

避けているものは「恥」。恥ずかしいことを避けるように生きている。いろいろなことが恥ずかしくないように行動している。いまやっている発信とか、普通の人が恥ずかしいと思うはずのことは、恥ずかしいを乗り越えられたもの。

でも、恥ずかしいことをあえてやらねばという思いもある。つらいけどその先にいいことがあると知っている、水風呂に入るような感じだろうか(水風呂は入れた試しがないけど)。

 

「没頭」の時間を増やしたい

自分の時間の使い方としては、没頭する時間を増やしたい。フロー状態、みたいなこと。

没頭している時間は、後から考えると幸せだし、孤独を感じないし、世界と一体化しているような感覚になれる(と思っている)。

文章を書いたり、人と話したりすることは没頭できる。本を読むのも、映画を観るのも、ほかのことを置いておいて没頭したい。

でも、没頭しっぱなしだと、没頭できる環境が壊される可能性が高まる。だからしょっちゅう没頭から抜け出して、環境を整えなくてはならない。

 

軸と言っても複雑すぎて言葉にしづらい

ここまで書いたけれど、そろそろあきらめムード。

抽象度、ジャンル、シーン、もろもろを想定しないとこういうことは書けないのかもしれない。

自分の中の複雑なものが、どこでどう表れるかは、一般化しづらい。かなり細かく限定しないと、自分の問いに自分で答えられない。

 

急に論点が飛び越えるけど、複雑なものを表すために物語があるのだと思う。いろいろなことを限定したうえで、たくさんの言葉を重ねないと、ものごとの本当のことは映し出せない。

 

私にとって「つながり」がなぜ大切か

つながりについてnoteに書いていたら、途中から内省的なひとりごとになってきたのでこちらに移動した。私の中では、noteは主に誰かに伝えたいことを書き、はてなブログにはひとりごとをしたためる。

note.com

こんな風に書いた。

誰かとつながることは私の欲求であり、願望であり、生きるための土台なのですね。私にとっては毎日のご飯のようになくてはならないもので、よりよくしていきたいものなのです。

そんな風に思ったのは、ポジティブ心理学を知ってからかもしれない(今はWell-beingとかいうのかも)。

 

私はハタチ前後に、人生で目指すところ(人がどうしてもそこに向かってしまうもの)は「幸せ」だと仮定した。成功することはそのための手段だし、善行をするのもそのための手段だ。

「幸せ」ならどんなことをしてもいいのか?

と自分に問うてみると、「Yes」のような気がする。誰かをだましたら幸せではないし、人に嫌われたら幸せではない。だから、「幸せ」ならどんなことをしてもいいと偉い人に許可をもらったとしても、結局おかしなことはしないだろうと、自分に関しては思う。

 

ポジティブ心理学では、幸せになる方法を研究している(たぶん)。本を読んだりTEDを見たりすると、良好な人間関係がかなり「幸福度」に影響しているという。

正直、過去の私は人間関係がとても少なくて、広げることをおっくうに思っていた。人見知りもあるし、面倒くさがりもあるし、自分を取り繕ったり媚びたりするのも嫌だ。

でも、「つながりが欲しい」と心の奥底では思っていたようなのだ。それを知ったときにはとてもとても驚いた。自分のことなのにね。

「本当はつながりが欲しい」と気が付いたとき、「登るべき山が見つかった」というような、喜ばしい気持ちになった。チャレンジのしがいがあるし、きっとうまくできる気がするし、登った先には美しい景色が見えるに違いない。

それから、人付き合いに本気を出すことにした。

 

人付き合いっていうと難しいけれど、私は「つながり」だと考える。濃いつながり、深いつながり、弱いつながり、細いつながり。いろいろな表現があるけれど、よいつながりは、どれも私の幸福度を高めてくれていると思う。

なぜ「つながり」って言うかというと、私は人ではないものともつながりたいからだ。特に草花とか世の中の摂理とかね。そういったものとつながりを感じられると、幸福度が高まる。

 

そんなこんなで、今でも引き続きつながりについて考えている。

『愛しのローズマリー』になぜぼろぼろと泣いてしまうのか

『愛しのローズマリー』という映画がすごく好きだ。

movies.yahoo.co.jp

映画館に見に行ったと思う。社会人になって数年目かな。

外見の美しい女性ばかりを追いかけてきたハルが、あるときから「心の美しい人が美人に見える」ようになる。そこで出会った絶世の美女は、ほかの人から見れば、とてもとても太っているローズマリー

私はこれを観て、信じられないくらいに、ぼろぼろと泣き続けた。

程度の差こそあれ、私はローズマリーだった。自分に自信がないのだ。

人目を気にする自分がとても痛くて、それを美しいと言ってくれるハルの言葉がとても嬉しくて。そういう感情がもう津波のように私を襲ったのだった。

 

自分を美しくないと思い込んでいる。太っているし、あの子たちよりかわいくないし、タイトな服だって似合わない。でも、その人は自分を「かわいい」「美しい」と言ってくれる。冗談はやめて。どこまで本当なの? 信じていいの? 

そうやって「この人は、もしかしたら本当にそう思っているのかもしれない」そう信じ始めた時の、自分が許されるというか、受け入れられる感覚。

求めて枯渇しているけど諦めて乾ききったところに、疑いなく圧倒的に流れ込んでくるハルの愛とまっすぐな気持ちが、私の体を澄んだ水でじゃぶじゃぶに満たすような気がして、本当に本当に、毎回泣いてしまうのだ。

 

私はこんなにもコンプレックスがあるんだなと、見るたびにわかってしまう。ローズマリーの気持ちになって、ハルの言葉を心にしみこませている自分を見つめて、こんなにもたくさんの穴や傷やへこみがあったんだと気づく。

 

そして、グヴィネス・パルトロウが本当にかわいい。