Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「身体性」について考える

近頃、「身体性」の大切さについてよく考える。

身体があるということは、どれだけ、価値のあることなのか。

先日、ポッドキャストでもテーマにしたところ。

emitochio.net

身体性がないがしろにされている

最近は「体で覚える」「練習で身に付く」「修行で上達する」のようなものが、ないがしろにされている気がする。

例えば、「暗黙知はよくない」「言語化すべし」「構造化すべし」みたいなこと。

もちろん、そういう側面もある。暗黙知をできるだけ減らして、言語化して、構造化することには大きな意味がある。

だけど、それが万能だと思うのはよくない。大半の大事なものは、「○○化」によって、削がれてしまう。

 

身体性を考えると、言語化したからといって何なのだということが、はっきりと、真理としてわかる。

ゴルフや野球を例に出したほうがいいのだろうけど、よくわからないのでバレーボールで言うと、ボールが思わぬ方向へ飛んだら、ひざを曲げて重心を低くすべし。そうしたらボールが床に落ちるまで時間が稼げるし、身体をどちらの方向にも動かせる。

だけど、知っているだけでできるわけはなくて。頭でわかっていても、とっさのときに膝を曲げるなんて思いつかない。

それはもう、練習するしかなくて、さらに言うと、言葉から体の動きに落とすことはきっとたぶんできない。一口にひざを曲げると言っても、いろんなパターンがあるから。

それよりも、うまい人のプレーを頭に焼き付けておいて、理由はわからないけれど、そういう動きを真似するほうが早く習得できるかもしれない。

見るだけじゃなくて、体を使う。体の動きは自分が思っているよりもずっと大量の情報を処理している。それを、頭で考えなくてもできるっていうのは身体の大きなメリットなのだと思う。

身体を頭で想像することはできない

よく言われるけれど、ただ手でコップを持ち上げる、というだけでも、おびただしい数の神経と筋肉をコントロールしている(らしい)。だから赤ちゃんはそれができない。できるようになるまで、言葉で教えられるんじゃなくて、ひとつずつ試して失敗して、できるようになっていく。

 

「アメリ」の1シーンにもあるけれど、豆袋の中に手を入れる、その気持ちよさ。したことのない人には想像ができない。

身体は脳を楽にする

絵を描こうと思うとき、身体を差し置いてできるだろうか。

絵がうまくなりたい、挿絵を作れるようになりたいと人に言ったら(私の言い方が悪かったのかもしれない)「illustratorをマスターしたら?」と言われた。たぶん、そうじゃない。私は身体でうまくなりたいのだ。

 

 

紙の本を読んでいるとき、身体に思考が助けられている気がする。電子書籍は、思考が補完すべき情報が多い気がする。

身体を使ったほうが、いろいろラクだ。記憶を定着させるのも、物事を理解するのも、ものをつくるのも、発想するのも。

 

めちゃくちゃになってしまったけど、今日はこの辺で。

身体性について知るために、読まなきゃいけない本があるんだけど、積読中である。泣ける。

私は人に何を与えることができるのか

見返りを求めたらみっともないから、与えることをセーブする

私は「見返りを求めたらみっともない」と思っていて、あとは期待してがっかりするのがすごく嫌で、人に与えるのをセーブしていた。たぶんずっとずっと。

だけど、人のために与えるのが究極の幸せだと言っている本とかが結構あって、どういうことかとあまり腑に落ちなくて、きっと世の中には自分のために生きる人と、人のために生きる人の2種類がいるんだろうと思ってた。

 

コルクラボに入って、まずは周りの人のことが好きになって、だからいろいろやるのも苦にならなくて、それ以上にいろいろもらってるなーって思ってて、まだ大丈夫だな、みたいに思ってる自分がいた。

つまり「まだ尽くしてるなんて気持ちになってない」「まだマイナスじゃない」「結局は自分のためにやってるし」みたいな。

 

でもそれって、結局与えるものともらえるものを比較して収支がマイナスにならないように調整してるんだよね。でもまあ自分はそういうタイプなんだろうと思ってた。

無限に与えられるかもしれない考え方?

ここからは私が「これなら無限に与えられるかもしれない(期待♡)」と思った気持ちの変わり方。

 

一緒にポッドキャストやってる安田佳生さんに「人の役に立つことをするだけでいい」ってずっと言われてたけどよくわらず。

でも、ずっとわかろうとしていた。

安田さんは「人の役に立てば戻ってくる。それが世界の法則だ」と、よく言っていた。

 

この間、コルクのサディ(佐渡島庸平さん)に「とっちーが自分のため、と言ってブログ(このLow Kick)を書いているのは、『読まれなくてもいいや』って、傷つかないための言い訳なんだよ」って言われて。

それ知ってた〜(グサグサグサ)って思った。

「言い訳しないでギブすれば戻ってくるよ」って、言われた。

 

でもそれじゃあ結局リターンを期待して動くことになる。

だから難しいなーって思ってた。

いままでもらったものを世の中に返すだけでいい

安田さんのポッドキャスト聞いてくれている会ったことない人に、Facebookで「栃尾さんもこれまで先人にたくさん与えられて来たはず。だからそれを他の人に返すだけでいいんですよ」的なことを言われた。

 

それを聞いて、なんだ、私はずっとずっと、もうマイナスになり得ないくらいにプラスなんだ、と腑に落ちた。

 

だから、私が与えられるものは、傷つくのを恐れず人に「伝えよう」とすることなのかなと。

 

そう思ったあとに公開したのがヒラクさんのことを書いたnoteの以下の記事で、できるだけ、いろんな人が理解できるように、文脈を端折らずに書いたつもり。

note.mu

 

腑に落ちたほやほやの思考の流れなので、とりとめもないけれど……。たぶん私は「与える」ってことをようやく「知った」ところなので、これから「わかった」になろうとしてるんだと思う。

 

与え、与えられる、ことになるのかわからないけど

ちょっとこれ見て。

 

SAKUMOさん(@mossannagisuke)がシェアした投稿 -

何と素敵な、写真とイラストの組み合わせ! これ、実は私なのです。

ポッドキャストを聞いてくださっている方で、何度かSNS上ではやり取りをしていて、ポッドキャストにもおたよりを送ってくださった。

 

その方が、 ↓の3枚目の写真を、描いてくださったの!!

 

Emi Tochioさん(@maliu)がシェアした投稿 -

 

 あまりのことに、感動し、私は家に帰るなりソッコーで写真用紙に印刷して、フォトフレームに入れた↓。

 

Emi Tochioさん(@maliu)がシェアした投稿 -

そうしたら、「嬉しすぎます!」とコメントをいただいて。

なんだろうこの、大きすぎる贈り物を与えられたのに、それを大切にするだけで、まるで与えているような感覚。

 

会ったこともないのに、お互いを思って、投稿しあう。

「ある日起きた出来事」としてフローに流れて行ってしまうにはあまりにも、あまりにもキラキラしすぎているので、こうしてブログに残しておきます。

 

人と人とのつながりには、こんな魔法のようなことがあるから、人とかかわることは本当に楽しい。そして、それぞれが自分で作っていくこと(ポッドキャスト番組も、イラストも)、さらには何かを贈りあうことが、本当に素敵なことなんだと思う、週の始まりでした。