人生は寂しさに包まれている。
そうではない、という人がいるのは知っている。
「あまり寂しいと思ったことがない」
「理由があって寂しいのであって、いつも寂しいわけではない」
でも、私は違う。それだけのことだ。
いつからか、寂しさを忘れることはほぼなくなった。
(正確に言うと、1回目の結婚から10年くらいは、孤独が消失したように感じられた)
「孤独は人生最大の敵だ」と思ったのは、20代だっただろうか。
その当時から、寂しさは私に付きまとう、というよりも、私は寂しさの海にどっぷりつかっていて、海の中で丸太棒が見つかったり、小さな船に乗れたりするくらいのイメージ。
だからよく、寂しさに巻き取られて息がしづらくなる。
敵を倒すことがヒーローものの最終目的だとして、同様に考えると私の人生の目的は、敵である寂しさを倒すことにある。
でも、寂しさは実体がない。例えると海のようなものだから、倒すのはなかなか難しい。
好きを仕事にして、家族を持って、友だちができて、人とのつながりができて。
それでも、寂しさの海はただただそこにあり、私はそこから少し浮いた場所で何とか生活できているに過ぎなかった。
もっと圧倒的に、寂しさから離れなくてはならない。すっかり忘れてしまうほどに。
「人とのつながり」は、救世主だと思った。
金脈を当てたようだった。
「つながりを感じられれば、私は"寂しさ"から救われる」
そう思った。
でも、何でつながればいいのか。つながりとは何なのか。
「寂しさから離れる」を人生の目的のように考えていたが、その言葉はあまりにもネガティブだ。
何かから離れるだけでは、結局どこへも行けない。
よく「潜在意識は否定語を理解できない」と言われる。
「寂しいをやめたい」と潜在意識に教えることは無理なのだ。
(「しろくまのことは考えるな」と、もしかしたら似たような構造だろうか)
だから多くの人は「幸せになりたい」とか言う。
ただ、私は、幸せだけど寂しい。
寂しさを寄せ付けないほどの、ポジティブなキーワードが欲しい。
少し前に、こんなエントリーを書いた(読まなくてOKです)。
友人をセーフティネットのように考えていた私は、めからうろこ。
友人は愛する対象であり、そのために友人がある。
いろいろなことがつながった。
これは予感であり仮説なんだけど、人生の目的を「愛する」にすればいい。
愛されるでもなく、愛し合うでもなく、「愛する」。
目の前の人を愛し、遠くの人も愛し、
人だけでなく、動物や植物も愛する。
愛するために出会い、愛するために分かり合い、助け合う。
愛されるのではなく、自分から愛することが、私を救う。
そんな簡単にできないけど、ひとまず意識してみることはできる、はず。
仮説検証してみよう。