「期待しない」はアンガーマネジメントらしい
あまり怒らない方だと思う。
よく「怖い」とか「怒ってる?」と言われるけど、それは私の出口(アウトプット)がどこか壊れているのだ。
あと、独断で我が子に対しては除外する。(子どもに対してはよく怒ってるからw)
怒る要因の大きなもののひとつとして「期待」があるのだという。
- 「わかってくれるはず」と思った(期待)のに、わかってくれない(怒り)
- やってくれればいい(期待)のに、やってくれない(怒り)
- 子どもがこう動いてくれれば間に合う(期待)のに、動いてくれない(怒り)
- 締切までに原稿が来るはず(期待)なのに、来ないじゃないか!(怒り)
期待ってキラキラしているようだけど、「こうあるべきだよね」みたいな静かな常識的なものも含めて考えてよいと思う、この場合。
※この場合おそらく「自分が正しい」と思っているってことが前提。自分は正しくないかもしれないと思ったら、誰かに怒りなんて感じないんじゃないかな。
いつからなのか、あまり人に期待しない。
子どもの頃から9年間やっていたバレーボールというチームプレーによるものという気もする。Podcastでも何かのときに話したけど、キャプテンだったんだけと強いチームではなかったし、バレーボールは雰囲気をよくすることで何点もよけいに取れるスポーツなので、「ミスを許す」ということにたくさんの神経を使った。
実は小学生の頃は最悪で、メンバーのミスが続くと怒って試合を投げ出してしまっていたこともある(監督に叱られて当然なんだけど、何も言われなかった)。だからやはり、もともとは怒りっぽいのに、怒らないように(許せるように)努力してきたんだと思う。
あとは、何かに期待したときの自分の傷つき具合を受け入れるのがなかなか難しかったので、いつからかいろいろなものに期待しなくなってしまったような気がする。
「怒り」は悪なのか?
「怒り」ってなければない方がいいと思っていた。今も自分に関して言うと、ない方がよいと思っている。冷静な判断ができなくなる。
冷静に「あり得ないよね」と思って判断した方がいい。「はたして本当にあり得ないのか?」みたいなことも含めて。
怒ってしまうと、「はたして本当に・・・」が考えられなくなるんじゃないかな。
あと、怒りって、何かのせいにしているよね。そういうのはどうも好きじゃない。
だけど、怒りという感情を生み出さないために「期待しない」って、いいことなのか? と最近疑問に思う。
子どもは勝つことだけを期待して、嬉しそうに勝負する。負けたら泣いて怒る。私自身は絶対そんなふうになりたくないけど、子どもにそれがなくなってしまうのは、まずいんじゃないか。
怒りを抑えるために、期待を消滅させようとしている私は、何か大切なものを失ってしまったんじゃないか。
社会を変える人
期待しないので、社会に対して怒りがない。
よく言えば、社会のせいにしない、とも言う。
社会を変える人って「怒り」から始まるんじゃないか、みたいなことをよく考える。
「保育園落ちた~」の話題とか、フローレンスの駒崎さんとか。
そういう人が「社会が悪いんだ!」って怒って、行動を起こすから、世の中が変わる。
「期待しない」(つまり、「怒らない」)って、やっぱりそんなにいいことじゃないのかもしれない。なんてことを少し、私の「考え」にパラパラと振りかけているところ。そんなにすぐには変われないけど。
あと、それは私の役目ではないと割り切ることもできる。怒る人もいるし、怒らない人もいる。期待する人もいるし、期待しない人もいる。