Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

想い以外を忘れてしまう

ものすごく遅ればせながら「君の名は」を観た。

 

すこーしあらすじを知っていたのもあるし、風景が美しいという前情報もあったので、そのあたりはふんふんと観た。半分くらいまでは、とても好きな雰囲気だった。

 

いちばん心に残っているのは、大切な人の名前を忘れてしまうこと。

その人の体の中に入ったという、唯一無二の人。他の人とは決して味わえない一体感。2人でひとつみたいな感覚。

そんな大事なひとの名前と顔と感触と想い出と……それらすべてを忘れてしまう。それなのに「煮詰まった想い」だけが残っている、そんな悲しいことってあるんだろうか。

 

例えば今大切にしている人、その人をすっかり忘れてしまうようなことがあったとしたら。

忘れてしまっても日常は回るし、それぞれ幸せなこともある。

 

私は特に忘れっぽいから、忘れてしまう悲しみに対する恐れがすごくある。

忘れてしまったら悲しいも何もないんだけど、でも悲しい事実だ。

だから私は毎日毎日文字を書く。愛おしいものを忘れないように。

 

 

「女性扱いをされると嬉しい」が汚いような気がする

ちょっとみっともないことを書こうと思う。

ジェンダーとかフェミニズムとか

女性だからってどうしてこんなにひどい思いをしなくてはいけないのだ、という気持ちがそんなにない。SNSやメディアではよく目にするけれど、私は強く思ったことはない。

共働きの両親

私の両親は共働きだった。社宅で私だけ保育園に行っていたし、小学校の頃は、学校でただ一人、少し離れた場所の学童へ行っていた。女性だって働くものだと思っていた。

女子校での垣根のなさ

中学は共学で、高校は女子校だった。女子校では、男子という垣根がないことでこんなに自由なのかと思った。

もっとも大きいのは「生徒会長」のような代表がすべて女子であることで、「自分にもできるのかも」と思えること。共学では、自分は対象ではないと、疑問を持つ前に思い込んでいたから。男性にはこういう感情はないのだろうと思った。実際、球技大会の会長をやってみたりした。

 

そのことに対して、自分の思い込みを知り、世界が広がるような感覚を覚えたものの、どちらがいいとかそういうことまでは考えなかった。

理系の大学と、外資系コンピュータ―会社

大学は理系で、クラス内は女子が2割くらい。女性だからなんだとか、そういうのを感じたことはない。

 

社会人一年目は、外資系のコンピュータ会社。人事のおじさまが「新人の頃、セクレタリの女性にコピーを頼んだら怒られた」というエピソードを披露していたくらい、男女が平等だし、ひとりひとりを尊重している文化だった。

だから私も、女性だからとかいう理由で、何か虐げられた覚えがない。ただ、マネージャーたちはほぼ男性で、ひとりだけ女性(子どもはいない)。だから、自分がこの会社で頑張って上に上がるというようなイメージは全く持てなかった。子ども欲しいし。

本気で頑張ったことがないだけなのかも

もしかすると、競争の世界で本気で頑張っても認められないような、悔しい思いをしたことがないのかもしれない。

頑張ってもうまくいかなく悔しさはあっても、それは女性だからという理由ではなくただの実力不足や努力不足だった。

正直、女の子扱いが嬉しい

20代の頃はショートカットだったのもあり、女性性を出したがらないタイプだった。そういうファッションが好きだったのだ。女性らしいファッションを「人と同じ」とバカにしていたような気持ちもあった気もする(若いですな)。

でもそのくせ、女性扱いをされるととても嬉しかった。今もうれしい。

だけど、女性扱いをされると嫌な気持ちになる人もいる。対等にやりたい仕事の現場で「かわいい」なんて言われたらフザケンナという感じなのかな。

 

何で女性扱いをされると嬉しいかというと、やはり自信がないからなんじゃないかと思う。自分をかわいくないとずっと思っていたし、かわいいと言ってくれる人がいても「珍しい趣味の人キタ!」と思っていた。

私自身、女性で好きな顔が面長でほっそり、カラダも少年のようにすらりとした体型が好きなので、自分とは全く違うというのも関係したのかも。

男性に好意的に見られたい

「好きな格好をするのが一番いい」とよく言われる。よくあるのは、もともと人にどう見られるかを気にして服装や髪形を選んでいたが、本当は違う格好がしたかった、好きな格好をするようになって自由になれた、みたいなエピソード。

 

私はその逆だ。

 

ずっと好きな格好をしてきた。体型的に似合わないのにボーイッシュな格好をして、髪を短くして。でも、どこかでやめたのだ。

スカートをはいて、体型が活かされるように、ウエストが少し締まっていてふわりとしたスカートをはく。似合うってことを一番にした。髪も伸ばした。

 

男女問わず、周囲からのフィードバックががらりと変わった。私も自分に自信がついた。容姿を褒められることが増えた。生活が快適になった。女性からの見られ方も変わったように思うけれど、結局男性の目を気にしている気がする。

結局、刷り込まれているのかも

フェミニズムの話をする際に、なんとなく真剣になれないのは、そもそも女性がそんなに虐げられていない気がするのと、女の子扱いされると嬉しいという2つの要素があるような気がする。

「女の子扱いされると嬉しい」って思うことは、美しくない気がするし、ずるい気がするし、汚いような気がしてしまう。でもそれって、なにかゆがんでないかな? 嬉しいんだから仕方ないのでは? だけど、その嬉しさこそが、自信のなさからくるゆがみなのだろうか。

 

あとは結局、女性が虐げられている事実に対して疑問を持たないほどに刷り込まれているのかもしれない。

思い出したけど、結婚したばかりの頃、料理をほぼせずにコンビニごはんばかりだったら「旦那さんかわいそう」というような意味で笑われたことがある。今思えば、2人とも働いていて、2人とも作っていないのにどうして女性のせいになるのか疑問だ。

笑われるのが嫌だからと、料理をし始めたのかもしれない。

 

なかなかに難しい問題だ。

欲しくてたまらないものに触れると泣いてしまう

過去に、「なぜこんな時に泣いてしまうんだろう」ってことが、何度かあった。

 

時間的にも精神的にもロケーション的にもハードだったプロジェクトでメンタルが落ち込んでいた頃、

そんなに大きくない、テントを張って開催されるサーカスを見て、涙がぼろぼろとこぼれた。

周りはほとんどが家族連れで、ワイワイと楽しそうに見ている中、ピエロが楽しそうにふざけるシーンで、どうして私だけがこんなに泣いているのだろうか。

 

同じプロジェクトで別の時期、映画「シュレック2」の序盤、仲間と楽しそうで幸せそうなシーンで、これまたぼろぼと泣いた。

 

ベイマックスでは、序盤で主人公の男の子が勉強に目覚め、本当に楽しそうに勉強をして上り詰めていくところで泣いた。

 

20代の頃、彼氏がいなくてダイエットと仕事でメンタルが落ちていて、孤独と戦っているときに、友人がとても幸せそうな家族写真をたくさんブログにアップしているのを見て、崩れ落ちるように泣いた。

 

今日この記事を読んで、すこしわかった。

dual.nikkei.co.jp

 

授業中寝てもいいし、途中で出て行ってもいい。校則がなくて、みんなと同じじゃなくていい、という中学校。

この記事を読んで、ぽろぽろと泣いた。学校がとても苦しい小4の長男が、こんな学校に通えればいいのにと。

 

他の人はわからないけれど、私は、自分では意識していなかった「本当に欲しいもの」を見せられた時に、どうしようもない気持ちになる

憧れと、自分が持っていないという絶望と、乾いた部分に水をじゃぶじゃぶと与えられているような癒しと、あとなんだろう。

 

いずれにしてもずっと謎だった疑問が解けたような気持ち。

 

【追加】

思い出したので追加。

チームラボ猪子寿之さんが出ていた情熱大陸を見ていたときに、私が欲しいものを持ちすぎている猪子さんを見て泣きそうになったのだった。

猪子さん - Low Kick - 2nd -

だから私は猪子さんが好きだし、ずっと憧れているのです。