Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

作業手順どおりに教えちゃいけないのでは

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タイトル通りのことを、考えてました。

 

やり抜く力に必要なもの

先日GRIT(やり抜く力)という本を読んだのだけど、そこにはこんなことが書いてあった。

やり抜く力を持つ人は例外なく、最初に楽しい経験をしていたのだという。

技術を上げるための練習はとてもきついものだけれど、スタート時点で楽しくてしょうがない時期があった。おそらく、だから続けられるのだ。

私も確かに身に覚えがある。小中高と9年間バレーボールを続けていたが、練習は辛かったし、休みになると嬉しかった。でも大前提として、バレーボールがとにかく好きだった。

理屈でなく好きになった理由は、スタート時がとにかく楽しかったんだと思う。

 

先に枝葉を散々やってから基本を知る

子供の頃、絵を描くのが結構好きだった。写生大会のようなものも、アニメの真似っこもした。ただ、子どもながらに、漫画っぽい絵を描くのは「イタイのかも」と感じて隠してたけど。

漫画の描き方みたいな本も読んで、直線とか、服のシワとかもちょっとだけ、練習したことある。でも結局そんなに夢中にはなれなかった。

 

最近「漫勉」ってテレビ番組があって、漫画家さんの制作現場をカメラで何日も密着する。それはそれは、面白い。

当たり前なんだけど、プロでもちゃんと下書きしてから描くんだという事実。顔を描くときに、丸を描いて十字の線を描く「アタリ」も人によってはちゃんと描く。

私はこれまで、落書きには「一発描き」ばかりしてきたけど、試しにアタリを描いてから下書きして、清書してみた(万年筆だけど)。

そうするとすごくバランスが取れて、上手く描けるしラクだってことがわかった。

後から基本をやるとこんなにしっくりハマって、ラクなんだ。

 

書き散らかしてからか構成のありがたみを知る

文章についても、考えてみる。構成(骨子)のありがたみがわかるのは、ずいぶん書けるようになってからではないか。

枝葉にあたる文章が書けないうちは、構成を作ってもそんなにスピードが変わらないんじゃないか。

構成の精度の問題もあるだろうけど、予定どおりに進まなかったり、構成を大事にするあまり文章が単調でおぼつかなくなる。

でも、文章をある程度書いて、慣れると、構成が活きてくる。構成があるとずっとラクだし、構成の精度も上がる。

 

新しいことを学ぶ順番

新しいことを教えるとき、つくる手順どおりにする場合が多いのではないか。でも、同じ順番で進めては上手くいかないこともあると思う。

 

文章の場合、手順としては書く前に構成をつくるけど、学ぶときには書く前に構成をやっちゃダメってことだ。

まず、楽しくない。それは、GRIT的によろしくない。

次に、効果が少ない。ある程度書くことに慣れていないと、ぴんとこない。

 

学校の勉強も、つくる順番に関係なく、楽しい枝葉のことから進められないんだろうか。

好きなことをいっぱいやってから、基礎を習う。そんなことができれば、「開眼する」みたいな体験がたくさんできそうなのに。

 

そう思うと、それができるのは学校ではなくて親なのかもしれない。

宇宙について学ぶ前に、博物館へ行く。歴史について学ぶ前に、建造物を見に行く。数学を学ぶ前に、数学が果たした研究の成果を知っておく。デッサンを習う前に、美術館へ行っておく、とかね。

 

「正しい」より「親切」を選べるか?

今日配信したPodcastのテーマは、「正しい」と「親切」。

emitochio.net

話している内容をざっと紹介すると。

子供に読み聞かせている「Wonder」という本(いま2週目)が発端。

こんな格言が紹介されていた。

「正しいことをするか親切なことをするか迷ったら、親切にしよう」

果たして私は、親切を選べるだろうか? という疑問について話した。

 

この収録では、「いつも『親切』にできる人は『ただのお人好し』ってことなんじゃないの」なんて話してて、実際そう思っていた。

いつもシメの言葉「もうちょっと考えます」を言うんだけど、実際に収録後も考えていく中で「ああそういうことだったのか」とわかったことがあった。

 

実は、最初にツージーが言っていた「どれが正しいかなんてわかんないじゃん」がすべてだった。

 

NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」を思い返して気がついた。

唐沢寿明さん演じる花山伊佐次は、たぶん身に染みていたのだと思う。

戦争中、正しいと信じて、国民が戦争に向かうためのコピーを書き続けた。けどそれが、間違っていたとわかった。

今、戦時中のことを振り返れば、戦争は間違っているということがわかるけど、私が当時生きていたら、たぶん一生懸命に「お国のために」なんて言っていたと思う。

当時は、戦争が「正しい」ことだったのだ。

 

だから「そういうとき」に拠り所になるのが「親切」を選ぶ、ということなのではないか。

で「そういうとき」かどうかを、実際その渦中にいる人がわかるのか? というとたぶんわからないんだと思う。

洗脳されている人が自分が洗脳されているとわからないように。今の私たちも、常識や、信頼できる人の言葉や、これまでの慣習にどっぷり洗脳されていると言えるわけで。

 

だからやっぱり、「親切」を選んで生きていけたらいいなと思っている。

でもすべてにおいて「親切」を選ぶなんて、なかなかできない。

だからその格言は、「迷ったら」って言ってくれている。

そういうことなんじゃないでしょうか。

 

うん、でも、もうちょっと考えていきまーす。

 

※エントリー内のリンクまとめ

#025 「正しい」より「親切」を選べるか? - クリエイティブの反対語[Podcast]Is There Truth?

Wonder(Amazonリンク)

好きじゃないことで抜きん出るなんて無理がある

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「仕事は好きでやるもんじゃない」みたいなことを言う人は、もういないかな?

少なくとも現代のトレンドではないように感じている。

 

私は過去にシステム系のサラリーマンで、いろいろな理由があって6年半で辞めた。

その後、IT企業にいたことをおそらく活かしてITに強い編プロに入り、パソコンやらスマホやらの記事をたくさん書いた。

パソコンやスマホに詳しい女性はあまりいないのもあってか、All Aboutで少々ガイドをしたり、女性誌から数件取材を受けたりもした。Androidの単行本も出させてもらった。BSの番組にかなり長い尺で出させていただいたりも。

だけどなんだか「詳しいフリをしてる感」に苛まれていた。いつも足りない気がしてた。

何年もやってようやくわかったのは、「好きでやっている人には到底かなわない」ってこと(私はいろいろと気づくのが遅い)。

いろいろ言い方はあるんだけど、少なくとも私は仕事がなければパソコンやスマホの情報を集めることは、まずない。

機械オンチでは決してないし、ライフハック的なものやソフト系はむしろ好きだけど、興味の方向はハードウェアではない。

で、パソコンやスマホをそんなに好きではないのに、そこで抜きん出ようとするなんて無理だし、おこがましいのではないかと。

努力して頑張って仕事のために情報を追いかけてたりしたけど、息をするように情報集めができる人に、叶うわけないでしょう。

なんとかこなしていたけど、息苦しかった気がする。すごく苦しくて仕方なくて、数年続いた連載をやめたりも、した(今振り返っても、私の仕事ではこの連載が一番読者からの反応をいただいていたんだけど)。

レビュー原稿がいまいちで、ライターとしての能力がない、みたいに言われたことも。

 

最近増えてるのは、インタビュー。

過去私は、インタビューや取材ってラクして記事を書くことだと思ってた。自分の中から書かず、人に聞いてそれを言葉にする。そのことに罪悪感や、至らなさを感じていた。

でも、「最近は取材できるライターが求められてる」とか聞く。はて?

「あんなにラクなのに」と。

ラクと言うと調子に乗っているようだけど、簡単とか余裕綽々という意味ではなく、苦しくないということ。

毎回緊張するし、調べることがたくさんある場合もあるし、チャンスは一回きりだし、難しい部分もたくさんあるんだけど。

楽しくて、ラクなのだ。

原稿のスピードも早い。書いていて楽しいし、没頭できるし、工夫のしがいがある。ストーリーテラーになった気にもなれる。さらに、インタビューした人にお礼も言われる。

 

人の話を聞いて書くのがとても好きなので、頑張れる。やっていても苦にならない。ずっとできる。

私は普遍的なものがとにかく好きで、流行り廃りにまるで興味が持てない。

それをどうやって仕事につなげるかまったくわからなかったけど、人の話には、普遍がある。その人がずっと大事にしてきたものだったり、哲学だったり、美意識だったり。

 

好きじゃないことで抜きん出ようなんて、やっぱり無理があった。

だからといってインタビューで抜きん出られるかどうかなんてわからない。

ただひとつ言えるのは、本当に好きなら人と比較してどうだなんて気にならなくなるもんだなって、思ってる。つまり抜きん出るかどうかなんて、どうでもよいのだ。