Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「心を開く」とはどういうことか

とてつもなく「寂しい」ときがある。

寂しくないように、どうすればいいか。これまでにもいろいろ考えてきた。「寂しい」という状態にならないようにいろいろ試すことはできるけど、「本当に寂しいそのとき」にどうすればいいのかまったくわからない。今でもわからない。

感情には正体がある?

昨日、ある人に「怒りの正体は甘え」と聞いた。私はすごく腑に落ちた。私の場合は、上司や子どもに怒りを感じることがあるけれど、それは相手が私が怒っても許してくれるだろうと甘えているからで、それはものすごく自覚ある。遠慮している人(甘えられない人)には、怒りが湧かない。

それなら、「寂しい」にもきっと正体があるはず。私はググった。ググった結果、ある本にたどり着いた。でもその本のAmazonページを見てもさほどそそられなかったので結局Amazonでググった(矛盾)。

買ったのはこんな本。Kindleで買った。

「外面的なつながり」ではなく「内面的なつながり」

6章が「寂しさ」で、ボリュームはとても少ない。

ただ結論から言うと、難攻不落だったいろんな場所の鍵がカチャカチャと、次々と開けられていった。あれもこれもあれも、まさかあれもそうなの? という感じ。

まずはこんなことが書かれていた。

「つながり」が感じられないとき、私たちは「寂しさ」を感じるのです。

それはもちろん「外面的なつながり」ではなく、「内面的なつながり」です。

内面的なつながりについては

「内面的なつながり」とは、ありのままの自分をさらけ出しても安心して受け入れてもらえる関係のことを言います。

今まさに、自分にはそういう関係がない、と感じていたところ!! ありのままの自分をさらけ出すなんて、傷つきに行くようなものじゃないの……。

外面的なつながりを求めていても、寂しさは消えない。

ああ、ですよね。そうかなと思ってた。ちょっと思ってた。外面的なつながりでもたくさんあればちょっとは寂しさ消えるよ? でもそれじゃ足りないんだよね。

「与えるもの」「心を開く」

ただちょっと、希望の光が差してきた。

「親しい誰か」がいなくても寂しさを手放せる。

え、ほんと? 手放したい、手放したい、手放したい。

まず知っておきたいことは、つながりは、与えられるものではなく、与えるもの、ということ。

おお、そこでこれが出てくるのか。「与えるもの」だなんて、しらなかった。私に足りなくて、でもいま目指そうとしているところ。

この本は、たとえば少額の寄付だったり、感謝の気持ちを込めながらの掃除だったり、自然に感謝したり、そういうことも内面的なつながりで、かつ「与える」ものだという。今話題のpolcaは、寄付することで寂しさを埋めるアプリなのかもね。

ポイントは「『つながる対象』があるかないか」ではありません。

「自分の心が開いているかどうか」です。

きたこれ。自分の心を開くって、最初に出てきた「ありのままの自分をさらけ出す」ってことだよね。

自分の心が開いている限り、本当の疎外感は味わえません。

私が疎外感を味わったり、寂しさを感じるのは、自分の心が閉じているからなのかな……。

寂しさの正体がわかると、私は条件が揃いまくりだとわかった

私はだいたいにおいて自分をさらけ出していないと思う。最近は以前よりずいぶん開くスピードは速まったような気がするけれど。

だからブログを書く

自分の気持ちを誰かに出せないから、誰かに受け止めてもらう自信がないから、さらには誰かに話してそのリアクションで辛い思いをしたことがあるから、ブログに書く。

そうすることで、少し自分を開くことができる、ってことじゃないのかな。文章を書く場所がないと生きられない。

 

だから小説や漫画で寂しさが紛れる

私は子どもに読み聞かせをしながら泣くし、マンガや小説を読みながら電車でニヤニヤしたり泣いたりする。それは最近のことなんだけど、そこで自分の感情を表に出しても自分は何も傷つかない。自分の感情を出せるという意味で、救われるのかなって思った。

なぜ心を開けないのか?

心を開ける人は、どうして開けるんだろう? 私はどうして開けないのか?

心を開くってどういうことなのだろう? まず簡単に言うなら、感情を表に出すってことだ。

私はそもそも、感情って隠すものだと思っていた。なぜだか考える。

毎日泣いていた小学校低学年

小学校低学年のときは、本当に毎日のように泣いていた(今の長男もそうらしい……w)。それくらい、感情の起伏が激しいというか、よく言えば感受性が豊かなのかな。

「泣くのを恥ずかしいって思わないの?」

と母に言われた覚えがある。そのとき、すごく驚いたよね。え、泣くのって恥ずかしいの? って。

感情って隠すものじゃないの?

ほかにもいろいろあって、感情って隠さなくてはならないんだ、と少しずつ思うようになっていた。たぶん人より振れすぎているから、隠さないとバランスが取れないというか、おかしなことになってしまうのだ。

だからときどき、唇の横が震えたり、目に涙を浮かべたり、不自然なほどの真顔になっていたりして、感情を隠さない人がいるとあけすけですごいな、って思う。私はまず感情を隠すためにどう話すか(話さないか)、どう動くか(動かないか)、を考えてしまう。

正直に話してスルーされたときの辛さ

「言ってくれればいいのに」とか「何でも聞くよ」とか言うのは簡単で、それを信じて話してみたら受け入れてくれない、なんてことは山ほどある。大事なことと気づかれないままスルーされたり、「大事なことなんだよ」と言っても「私はこの話がしたい」と言っても、相手にはぴんと来ない。

それは相手が優しくないとかじゃなくて、人ってそういうものなんだと思っている。

それに、相手が大事な話だと思えないのは、私が感情を表に出していないせいなのかもしれない。サラリと、何ともないように言ってしまうから。そこから辛さを嗅ぎ分けてくれるケースは本当に少ない。一度嗅ぎ分けてくれたから次も大丈夫だろう、と思うとそうでもないしね。

全然与えてない

もう、全然与えていない。

与えてもらうこと、してもらうことばかり考えているのがありありと。それって人の話を聞いてあげるとかじゃないんだろうな。聞いてあげたから聞いてもらえるってわけじゃないから。

私の場合は、人に対して心を開くことにことごとく失敗してきたから(もちろん自分のせい)、今のようなやり方に落ち着いた。

でも「寂しい」は全然解消されていないから、何か考えなくてはいけない。「内面的なつながり」を生むために、自分から心を開き、自分から与える方法。

 

それにしても、我ながら本当にメンドクサイやつだと思うね。

Twitterによってめちゃくちゃ生きやすくなった話

テレビをあまり見ない

もともとあまりテレビを見ない人間だったようだ。

会社から帰って、テレビを見て時間が過ぎてしまうのが耐えられず、20代半ばくらいにテレビを姿見の後ろに置いた(スペースの問題もある)。

録画したドラマを見るときだけ、姿見を外してテレビを見る。

その後、どこかのクールでドラマのチェックを忘れてしまい、そのままテレビを見なくなる。

 

冬のソナタがはやっているときに、ペ・ヨンジュンという名前すら全然知らなくて、おそらく数ヶ月後に名前を知ってみんなに驚かれた。さらには名前を知ってから顔を知るまでに何ヶ月もかかった。

 

でも、すごく重要なニュースなどは、会社や友だちが話題にする。それでこと足りるだろうと思っていた。……世捨て人?

 

雑誌は好きだったので、読んでいたと思う。本も読んでいた。とにかく速報性の高いニュースとか、流行り物に価値を感じなかった。

人とあまり会わない

会社員の頃はそれでもよかったんだろうけど、ライターになって日常的に人と会うことがなくなった。

打ち合わせや取材で会うとしても、テレビの話なんかはあまりしない。

世間で何が話題なのか、何がニュースになっているのか、どんな俳優さんが人気なのか、全然わからない。

ただ、夫がテレビ好きなので、付き合って見ているうちに少しずつわかるようにはなってきた。でもドラマ・バラエティ中心なので、ニュースなどはやっぱりよくわからない。

 

(ちなみに、企画を出す媒体を担当していたときなどは、日経新聞とか日経MJとか購読して頑張ってネタ拾いしていたけれど、そういう必要がなくなると途端にやらない。ダメ社会人)

Twitterが解決してくれた

そこへ来て、Twitter

Twitterは見るのが苦じゃない(ニュースサイトなどは割と「苦」の部類)。というか楽しい。そこで流行っていることとか、問題視されていることとかが自動的にわかる。(偏っているので注意は必要だけど)

友だちとの雑談のように、下らないことと大切なことがバラバラに流れてくる。気になったら深掘りできる。スルーもできる。

「これ、ネットで話題ですよね」と言えたり、その中で自分の考えを話せたりするのは、ぜんぶTwitterのおかげだ。気になる人しかフォローしていないのですごく偏っているとは思う。でも何となく世間が見渡せている感じがする。

テレビを見る人が減っているらしい

みんながテレビを見ていたときは、1人話題についていけないことが、本当に、ものすごく、頻繁にあった。

だけど今は、見ていない人も多いし、「誰でも当然知っているよね」という話題は少なくなりつつあるのではないかと思う。あるとしても、PPAPとか、ネットでキャッチできることなんじゃないかな。

だから、ものすごく、生きやすくなった。

 

Twitterさまさま。なくなったらどうやって生きていけばいいのだろう。(元に戻るだけか)

考えたら割と恥ずかしい人生だった

恥ずかしいことって人によって違うけど、できれば恥をかかずにいたいと思ってしまう。

例えば、私は小学生の時に児童委員会というのに立候補して、10人くらいの候補者のうち1人か2人しか落ちないのに落選してしまって(生意気すぎて上級生に嫌われていたらしい。後に不良になっていく先輩方に「結果が楽しみだなー」って笑いながら言われたから)、すごく恥ずかしかったし、もう出しゃばるのはやめよう、って思った。

※余談中の余談ですが、その時に当選した子から中学校へ進んだ後に何通かラブレターをもらって、落選したときに泣いていたのがきっかけだったような気がしている……。そういえば中学の時に告白してくれた男性も、私が職員室で体育の先生に泣かされていたのを見られたのがきっかけだったような……。ギャップ論?

 

先日、Facebookで下記のような投稿をした。

以下コピペ。

7月からコルクラボという勉強会(?)のようなものに参加しています。(マンガ編集者として有名な佐渡島さんのコルクという会社が主催しています)
https://lab.corkagency.com/about

そこで早くも教えてもらったのは「恥をかき慣れたほうがいい」ということ。1-2年ほど前から、短編を書いてみたり、「今日の140文字」を投下したり、ポッドキャストを始めてみたり、誰の役にも立たないブログをシェアしたりと、端から見たら恥ずかしげもなさそうにいろいろな活動をしていますが、全部最初はめっちゃくちゃ恥ずかしかった!!(実は今も恥ずかしい)

今回もさらにカッコ悪くて恥ずかしい試みとして、長編小説のプロットを書いてみました。で、コルクラボで開催している「覆面編集者大賞」(https://note.mu/henshu_ckr/n/n6436d1c129c4)に応募します。

下記のツイッターで紹介しているので、Twitterのアカウントがある方は、ちょっと読んでみて、もし「栃尾さんのこと、応援してもいいかな」と思ったらリツイートをしていただけると嬉しいです。(リツイート数が評価に加味されるので)

で、出版その他に興味がある方は、一緒に応募してみませんか? 実用書部門もあるので、創作でなくてもOK。ライター仲間の皆さんもぜひに♪

https://twitter.com/maliu63/status/896008351531782144

 今まで恥ずかしいことができていなくて、今ようやく勇気を出してやります! みたいな顔をしているけれど、よくよく考えてみたらそれなりに有名な会社から、年収だだ落ちで文章を書く仕事に転職したのも、たぶん相当恥ずかしいことだったんだと思う。

クリエイティブな仕事やライターやってる人たちからすると、その感覚はわからないかもしれないけれど、普通の技術っぽいサラリーマンが「クリエイティブ職に就きたい!」って言うのってたぶん相当恥ずかしいし、何夢見てんだよみたいな感じだし、「文章を書いて暮らしたい」なんて「はーそうですか」って感じだと思うんだよね。「女優になる!」とか「アイドルになる!」みたいな……? 

少なくとも私はそんな風に思われると思っていたし、実際、そんな風に言われたり空気を感じたりしたことは多かった。でも、人生をかけて恥をかきに、ドーン、と飛び込んでしまったわけです。でも、いきなりフリーランスになるよりは、会社(編プロ)に入ったので仕事もお金も入ってくるし、それほどリスキーではなかった。だから恥ずかしい思いが多少は少なくて済んだんだと思う。

 

何が言いたいかというと「恥ずかしいことを避けてきた自分バカ!」みたいに先日は思っていたけれど、けっこうちゃんと、恥をかいて頑張ってきたじゃないか、と思ったわけです。プライドを捨てて、できないことをゼロから頑張って、できるようになって。

いろいろなことがなかなか広がらなくてモヤってるけど、それでも諦めたりせず恥ずかしい姿を見せながら少しずつ前に進んでいる。

「意外といいんじゃないの? でかした自分」と思ったって話でした。