とてつもなく「寂しい」ときがある。
寂しくないように、どうすればいいか。これまでにもいろいろ考えてきた。「寂しい」という状態にならないようにいろいろ試すことはできるけど、「本当に寂しいそのとき」にどうすればいいのかまったくわからない。今でもわからない。
感情には正体がある?
昨日、ある人に「怒りの正体は甘え」と聞いた。私はすごく腑に落ちた。私の場合は、上司や子どもに怒りを感じることがあるけれど、それは相手が私が怒っても許してくれるだろうと甘えているからで、それはものすごく自覚ある。遠慮している人(甘えられない人)には、怒りが湧かない。
それなら、「寂しい」にもきっと正体があるはず。私はググった。ググった結果、ある本にたどり着いた。でもその本のAmazonページを見てもさほどそそられなかったので結局Amazonでググった(矛盾)。
買ったのはこんな本。Kindleで買った。
「外面的なつながり」ではなく「内面的なつながり」
6章が「寂しさ」で、ボリュームはとても少ない。
ただ結論から言うと、難攻不落だったいろんな場所の鍵がカチャカチャと、次々と開けられていった。あれもこれもあれも、まさかあれもそうなの? という感じ。
まずはこんなことが書かれていた。
「つながり」が感じられないとき、私たちは「寂しさ」を感じるのです。
それはもちろん「外面的なつながり」ではなく、「内面的なつながり」です。
内面的なつながりについては
「内面的なつながり」とは、ありのままの自分をさらけ出しても安心して受け入れてもらえる関係のことを言います。
今まさに、自分にはそういう関係がない、と感じていたところ!! ありのままの自分をさらけ出すなんて、傷つきに行くようなものじゃないの……。
外面的なつながりを求めていても、寂しさは消えない。
ああ、ですよね。そうかなと思ってた。ちょっと思ってた。外面的なつながりでもたくさんあればちょっとは寂しさ消えるよ? でもそれじゃ足りないんだよね。
「与えるもの」「心を開く」
ただちょっと、希望の光が差してきた。
「親しい誰か」がいなくても寂しさを手放せる。
え、ほんと? 手放したい、手放したい、手放したい。
まず知っておきたいことは、つながりは、与えられるものではなく、与えるもの、ということ。
おお、そこでこれが出てくるのか。「与えるもの」だなんて、しらなかった。私に足りなくて、でもいま目指そうとしているところ。
この本は、たとえば少額の寄付だったり、感謝の気持ちを込めながらの掃除だったり、自然に感謝したり、そういうことも内面的なつながりで、かつ「与える」ものだという。今話題のpolcaは、寄付することで寂しさを埋めるアプリなのかもね。
ポイントは「『つながる対象』があるかないか」ではありません。
「自分の心が開いているかどうか」です。
きたこれ。自分の心を開くって、最初に出てきた「ありのままの自分をさらけ出す」ってことだよね。
自分の心が開いている限り、本当の疎外感は味わえません。
私が疎外感を味わったり、寂しさを感じるのは、自分の心が閉じているからなのかな……。
寂しさの正体がわかると、私は条件が揃いまくりだとわかった
私はだいたいにおいて自分をさらけ出していないと思う。最近は以前よりずいぶん開くスピードは速まったような気がするけれど。
だからブログを書く
自分の気持ちを誰かに出せないから、誰かに受け止めてもらう自信がないから、さらには誰かに話してそのリアクションで辛い思いをしたことがあるから、ブログに書く。
そうすることで、少し自分を開くことができる、ってことじゃないのかな。文章を書く場所がないと生きられない。
だから小説や漫画で寂しさが紛れる
私は子どもに読み聞かせをしながら泣くし、マンガや小説を読みながら電車でニヤニヤしたり泣いたりする。それは最近のことなんだけど、そこで自分の感情を表に出しても自分は何も傷つかない。自分の感情を出せるという意味で、救われるのかなって思った。
なぜ心を開けないのか?
心を開ける人は、どうして開けるんだろう? 私はどうして開けないのか?
心を開くってどういうことなのだろう? まず簡単に言うなら、感情を表に出すってことだ。
私はそもそも、感情って隠すものだと思っていた。なぜだか考える。
毎日泣いていた小学校低学年
小学校低学年のときは、本当に毎日のように泣いていた(今の長男もそうらしい……w)。それくらい、感情の起伏が激しいというか、よく言えば感受性が豊かなのかな。
「泣くのを恥ずかしいって思わないの?」
と母に言われた覚えがある。そのとき、すごく驚いたよね。え、泣くのって恥ずかしいの? って。
感情って隠すものじゃないの?
ほかにもいろいろあって、感情って隠さなくてはならないんだ、と少しずつ思うようになっていた。たぶん人より振れすぎているから、隠さないとバランスが取れないというか、おかしなことになってしまうのだ。
だからときどき、唇の横が震えたり、目に涙を浮かべたり、不自然なほどの真顔になっていたりして、感情を隠さない人がいるとあけすけですごいな、って思う。私はまず感情を隠すためにどう話すか(話さないか)、どう動くか(動かないか)、を考えてしまう。
正直に話してスルーされたときの辛さ
「言ってくれればいいのに」とか「何でも聞くよ」とか言うのは簡単で、それを信じて話してみたら受け入れてくれない、なんてことは山ほどある。大事なことと気づかれないままスルーされたり、「大事なことなんだよ」と言っても「私はこの話がしたい」と言っても、相手にはぴんと来ない。
それは相手が優しくないとかじゃなくて、人ってそういうものなんだと思っている。
それに、相手が大事な話だと思えないのは、私が感情を表に出していないせいなのかもしれない。サラリと、何ともないように言ってしまうから。そこから辛さを嗅ぎ分けてくれるケースは本当に少ない。一度嗅ぎ分けてくれたから次も大丈夫だろう、と思うとそうでもないしね。
全然与えてない
もう、全然与えていない。
与えてもらうこと、してもらうことばかり考えているのがありありと。それって人の話を聞いてあげるとかじゃないんだろうな。聞いてあげたから聞いてもらえるってわけじゃないから。
私の場合は、人に対して心を開くことにことごとく失敗してきたから(もちろん自分のせい)、今のようなやり方に落ち着いた。
でも「寂しい」は全然解消されていないから、何か考えなくてはいけない。「内面的なつながり」を生むために、自分から心を開き、自分から与える方法。
それにしても、我ながら本当にメンドクサイやつだと思うね。