Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

相手によって話のテンポが変わる

私は本当のところ、相手の話を遮りたいという欲求が生まれがちなタイプだ。話を聞いている最中に聞きたいことや話したいことが浮かんでしまう。かつ、さっとすきを見て入り込んでしまう。

 

人の話を遮らないようにしてみると、他の人って話を遮らないんだ、と思った。それを最近知るなんてほんと未熟極まりない。

 

でも、本当は、思った瞬間にばーーーーっとしゃべりたい。

 

だから、ポンポン話が進む人はとても楽しい。自分の言いたいことをどんどん話せるのだ。

 

ただ、そういう人との会話を振り返ると、私も話をたくさん遮られている。さらには、話がどんどん違う方向へ行く。でも、私が遮られているからこそ、私も気にせずに相手を遮ることができる。そういう遠慮がなくなっていくのだ。だからとても楽しいのだろうな、と最近思った。話のテンポが合う。

 

反射神経で話しているから、もらった言葉に対して心が傷つくことがある。とてもやさしい人であってもコンプレックスがあって、そのコンプレックスが自分に向くと、相手の受け止め方を考えずに言葉を発してしまうことがあるようだ。私もそういうことはもちろんあると思う。ゆっくり話す人に比べて、失言が多くなる。自分の浅はかさが露呈してしまう。

 

かつ、話のネタが尽きないというのは、具体が多いということだ。言葉は抽象的にするほどコンパクトになるからだ。具体が多いと、聞いている方は結構疲れる。私は総じて、具体的なことにはそんなに興味がないのだ。

 

かたや、最初はそんなに意気投合!ってほどでもなかった人で仲良しの人もいる。そんなにポンポン話すタイプではない人。私も相手を遮らないし、相手も私を遮らない。話したいときにポンポン話すという欲求は満たされないけど、自分の話を話し続けたいという欲求は満たされる。

 

私にはいろんな欲求があって、どれかひとつでは満たされないのかもしれない。

 

インタビューでは相手の話を聞く。相手から素敵な言葉が出てくる瞬間が楽しい。自分が話したいことは特にない。仕事ではなくても、「この人の話を聞きたい」と思って話していたら「聞き上手だよね」「話し過ぎてしまった」と言われることもある。

 

私はいろんな会話のテンポを持っていて、それを相手に合わせて自動的に使い分けているのだろう。

「無頓着」と記憶の関係

親しい人に「いいかげんなんだよね私」といったら「いいかげんだよね」と言われたので、自分のいい加減さについて考えてみた。

 

例えば、食事とかにこだわりがない。美味しいものを食べれば美味しいし嬉しいけど、美味しいもののために予約したり、混んだ店に行ったり、並んだりと、大変な思いをするのがとても面倒だ。お金を出せば大丈夫だとしても、そこまで高いお金を出したいと思えない。ただ、普段食べるものにだしの素は使いたくないとか、そういうむしろ面倒なこだわりはある……(笑)。

 

地名を覚えない。まったく覚えない。行ったことがあってもすぐに忘れる。Googleマップで何も考えず行ったのであればなおさら。自分が生活している圏内なら、少しずつ徐々に覚える。だけど覚えようとしない。興味がないのだ。47都道府県や県庁所在地も言えるか怪しい(テストのときは覚えました)。不都合は特にない。自覚している困りごともない。ただ、ときにとても恥ずかしいだけだ。(ちなみに、地図は読めるし立体や図形は得意だ)

 

本当は、すごく不便な思いをしているんだと思う。知らないってことはそれが見えないってことだ。ワープロを使っていて、コピー&ペーストを知らないようなものだ。不便はないけど、なんかすごく、すごく、なんかだよね、っていう。

 

ちなみにパソコンのTips的なものは大好きだ。覚えると得があると知っているから。めちゃくちゃ便利になるし効率よくなる。地名に関してもそう思えるといいのだけど、頭でわかるのと体感でわかるのは違う。体感でわかっていない。

 

掃除とか片付けとかも、子どもができてずいぶんよくなったけど、それでも適当な方だと思う。最近は、物を減らせばそれほど散らからないと気づいて、物を減らすことを頑張り中。

 

なんかいろいろ考えているうちに、いいかげんというより、ずさん。ずさんというよりズボラ。ズボラというより無頓着なのでは、と自分の中でキーワードが進化してきた。

 

そうだ、「無頓着」なのだ。

 

食事も地名も、いろいろなことに無頓着。具体に興味がないということなんだけど、それは無頓着とかなり近い。

 

洋服を白黒だけにできるのも、女性のわりにファッションにこだわりがないからかもしれない。昔は好きなファッションがあったけど、あるときから「似合う」方向に変え、それからこだわりがどんどん減ってきた。

 

転校生でいろいろな場所を転々としたということもあるかもしれない。何かにこだわっていたら適応できない。転校先で知らない話題があっても気にしないようしないといけないし。

 

人の話を真摯に聞いて、その時はとても感情移入するのに、少し経つとボンヤリとしか覚えていなかったり、全く覚えていなかったりする。聞けば思い出すんだけど、聞かないとわからない。こう書くと記憶障害かと自分で思ったりするが、親しい人には「いろんなことをよく覚えている」と言われたりする。やっぱり自分から一定の距離を離れると、無頓着の度合いが急に強まるのかもしれない。

 

たまたま入ったピザのお店やカレーのお店がめちゃくちゃおいしかったことがある。店の場所だけだいたい覚えている。何度も調べるのだけど店名を覚えない。駅や場所から写真を見つけて「ああ、ここここ」と思い出す。でもまた店名を忘れる。

 

ものを覚えていないというのは、うすもやの中を歩いているような気分だ。どこにいても、うっすら覚えているような、初めてのような気持ちになる。むしろ初めての場所で地図を見て必死に歩いている方がずっといろいろなことを把握できる。

 

もしかすると、仕事のせいもあるかもしれないし、ないかもしれない。1回きり取材して、深く話を聞いて、そのことを記事にする。それで関係性は終わり。私は専門性がないので、知識が積み重なることはあまりない。

 

うすもやの中で前に進むスキルは身に付く。木の根っこに気を付けるとか、あそこは滑りやすいとか、こういう感じのところは崖だよ、とか。それでなんとか前に進んでいる感じだ。明らかに王道ではないだろう。

 

話がどんどんずれていく。私はいろんなことに無頓着すぎて、それ故に無頓着ならではの生存戦略を持っている、のだろうか。これは治るものでもないだろう。無頓着だと誰かを傷つけることがあるが、無頓着を治すのではなく、無頓着なりに人を傷つけない方法を学ぶしかない。

 

ここまで書いたんだけど、私は具体的なできごとを人に話さないから覚えないのかもしれない。話すにしてもある程度抽象的にして話す。ううーん、関係あるようなないような。

オンラインサロンの人たちと仕事をする

GIVEの実験室」というオンラインサロンをしている。

自分がギブすることで何が起こるかを実験するコミュニティ。

20人ちょっとの小さなコミュニティですが、ギブしたい人が集まっているので本当におだやかで控えめで素敵な人ばかり。

 

その中で、お仕事がいろいろ発生している。

 

例えば、ふじねまゆこさんには、私が取材したもののライティングをお願いしたり(もちろん、クライアントには伝えている)、クリエイティブの反対語の見出し画像を作ってもらったり。

 

折田大器さんには、クリエイティブの反対語の「読むPodcast」の原稿を執筆いただいている。

 

金子アユミちゃんは、ギブの実験室の前から友人だけど、クリエイティブの反対語の収録、編集、ジングル制作を。

 

また、お仕事ではないけど、大谷信さんとは、発信(アウトプット)を励まし合うLINEのオープンチャットで毎日のように励まし合っている。(※こちらはアウトプット相談をお受け下さった方でご希望あればご招待しています)

 

また、安田佳生さんからは、次男に対して声の動画出演のオファーをいただき(というか私が立候補したのですが)、このたび「サルわかChannel」でデビュー! 子どもの声はうちの次男。カワイイ。

 

www.youtube.com

 

加えて、お米は丹波のお米と野菜を扱うパンチィー山内さんから購入し、コーヒーは愛知で喫茶店「和」を営むほにゃじさんから購入している。先日などは、新作のサンプルをいただいていしまった……!!

 

知っている人とお仕事をするのは、とても気持ちがいい。お金以上のものをやり取りしている感じがする。