Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

落胆したくないから、期待したくない

期待が叶わないこと、あるよね。

 

ほんとにしょうもない例を出すと、

「今週土曜日空いてたら遊ぼ!」と聞いたとき、

「あ、予定ある」とかだってもう、叶わなかったってことになる。

「んーまだわかんない」とかだともう、最悪! 「暇だったら遊んでもいいよ」感!

 

だけど私は知っている。

そういう時はきっと、「ダメ元」で誘えばいいのだ。「ダメでもともと」だと思えばいいのだ。期待しないってそういうことだと思う。期待しなければ、落胆はない。

 

だけど、仲良くなってくるとつい期待してしまう。相手も私と話したいんじゃない? と思ってしまう。仲良くなる間に、こんなステップを踏む。

 

ダメもとでオファーする(期待値1くらい)

OKだよ!ってなる(期待値1がかなえられてなぜか膨らむ)

別の機会にオファーする(期待値2くらい)

OKだよ!ってなる(また膨らむ)

また別のことでオファーする(期待値3くらいになってる)

断られる(落胆6くらい。なぜか倍!)

 

いつの間にか期待していた、なぜ期待するのだ、期待しなければよかった……と落胆する。

いつだって、落胆するのは期待した結果なのだ。期待さえしなければ落胆を避けられたのに! そんな風に思ってしまい。

 

でもまったく期待しないの難しいし、できたとしてもそれはそれで寂しいし、期待に応えてもらえた時の喜びはひとしおだし。

 

落胆しても、また上がってこれるようにするのが一番いいのかな。

求ム! 最適解!

ことばを尽くすとは

「ほんとうのこと」に対して「ことば」はどれくらいの力があるのだろうか。

 

「ほんとうのこと」と「ことば」は

「リアルなもの」と「スケッチ(または写真)」と似たような関係だと思う。

 

3次元のもの(リアルなもの)を2次元(スケッチ)で伝えようとしたとき、

それを知らない人にはきっと、ちゃんと伝えられない。

立体として伝えるためには、あらゆる方向からのスケッチが必要で、それによってようやく全体のかたちを伝えられる。

 

心で思っていること(ほんとうのこと)は実際に見せられないから、

「ことば」を使う。

ただ、ことばでは一面しか表せない。

だから角度を変えて、あっちからもこっちからも見つめなおして、ことばを尽くす。

だけど、「それ(同じもの)」を持っていない人には、やっぱりなかなか伝わらない。

 

同じものを持っている人には、どうか。

きっと、ひとつのスケッチ(ことば)を見せるだけで、

「あ、同じもの持ってるよ」とわかる。

今度は相手が「こっちからみるとこうでしょ?」と言う。

「そうそう、同じかたち」

それは2面も説明すればたぶんわかりあえる。

 

ほんものを見せることはできないけれど、ことばを尽くせば、同じとわかる。

ただ、ことばはほんとうのことを「まったくその通り」に伝えることはできず、再現されるかどうかは相手にゆだねられる。

 

ことばではほんとうのことを表しきれないけれど、

ほんとうのことを表すにはことばを尽くすしかない。

 

と、そんなふうに思うんだー。

「〇〇してきたのはこのためだった」

こういう人になりたいと、心がけてきたこと

なんとなく、ずっと心がけてきたことがあって。

 

ひとつめは、自分の偏見をできるだけなくしたいってこと。

 

例えば、障害者とかLGBTの人に対して。
まず、そういった人を知りたいという気持ちがあって、でも「助けたい」「力になりたい」という気持ちに強く結び付いているわけじゃなく、自分でもなんなのかなーと思っていた。
たぶんそれは「相手を恐れないため」、つまり自分のためなのかなって思ってた。
例えば、電車で大声を出すとか、そういう人を見ると、知識がないと怖いと思ってしまう。だけど、「そういうものなんだ」って知ってれば平気になるでしょう。

 

あとはできるだけ、自分と違ういろいろなことを受け入れたいと思っていて、それも理由はわからないけれど、シャットアウトしたら自分が変わっていくチャンスを失ってしまってもったいないな、という思い。

 

ふたつめは、相手の意見(や行動や罪)と人格を切り離して捉えるってこと。

 

意見はまあわかりやすい。私と違う意見を持っていたとしても、対立するわけじゃないし、ましてや私を嫌っているわけじゃない。逆の立場でも同様だ。

 

あとは行動。私に対して嫌な行動をしたとしても、きっと世の中の全員にそういう態度で接してる人ではないんだろうな、と思う。であれば、その人の全部を否定したくはない。私との間では、うまくいかなかっただけだと考える。

 

罪。罪を憎んで人を憎まずというけれど、人は状況によって頭が冷静に働かないことがいくらでもあるし、そこで罪を犯してしまうこともあるかもしれない。でも、それによってやはりその人全部を否定したり、その人に「罪」のラベルを貼ったりしたくない。(あまりひどい人には会ったことがないので、もちろん絶対に許せないタイプの罪もあると思う。程度の問題だし、境界はいつもグレーである)

 

ほかにも「こういう嫌なところはあるけれど、ここはいいところ」って部分で考えるようにしている。だから逆に言うと、どんなに好きな人でも欠点を言える、みたいなことにもなっちゃうんだけどね。


LGBTの人のカミングアウト

私が以前、小説のプロットとして女性同士の恋愛をテーマに書いたことがある。
それをSNSで見て、連絡してきてくれた遠い友人がいて。


その彼女は、最近になって初めて、恋愛対象が女性であると気がついた人。
私とはそれほど仲良かったわけではなく、友人の友人で、一度会ったことがあるだけだった。

でも、私の創作の助けになるならと、私にカミングアウトしてくれた。
私はレズビアンの人に対して偏見はなかったし、その人が私に対して多少なりの好意を抱いてくれているとわかっていたけど、全然オッケーで、いろんなことを聞いて、いろんなことを笑いあった。

 

「えみさんに初めて言ったけど、全然引かなかったし、受け入れてくれた」みたいにあとから言われて、
そうか、きっとLGBTの人の最初のカミングアウトってすごく大事だよな、とあとから思った。

 

で、私が偏見をできるだけなくして生きていきたいと思ってきたのは「このためだったんだ」って、思ったのね。後付けだとしても、そう思った。


タメ語推進ってどうなの?

コルクラボでタメ語推進委員会を立ち上げた。
すぐタメ語で話す人、すぐ敬語にもどっちゃう人、頑なに敬語の人、いろいろいたけれど、基本的には想定内。
話している相手がタメ語使わないと少し寂しいけれど、最初ビビってたほどの抵抗にはまだあっていない。

 

「タメ語ってどうなのよ?」と思って、決して好意的ではなかった人がいたらしい(それはあとから聞いたんだけど)。でもその人と話す機会に恵まれて、私が普通にタメ語で話して、その人は敬語だった。
それって話をするだけで「タメ語推進には賛同しません」っていう意思表示だとも取れるから、相手にとってはリスキーだよね。


でも普通に楽しく話せて、その人はそれを
「ぼくが敬語で話しても、それはそれで怒られずに、他の人と変わらずに接してくれるのが嬉しかった」
と言ってくれた(でも・・・怒るわけないじゃん!!笑)。

 

その人は「私に対して違う意見を言っても嫌われないだろう」って安心を感じてくれたんだって。で「ぼくはタメ語使ってないですが」みたいに言ってくれた。

 

で、これもまた、私がこれまでに意見(や行動や罪)と人格を切り離して考えるようにしてたのって「このためだったんだ」って、思った。

 

報われた気がした

実はこれが2日連続で起きた。
「報われた」って気がした。
これまで我慢してたわけでもないんだけど、それなりにそういう人になろうと「努力して」きたんだと思う。
自分のためにやってきたことだったんだけど、人に対峙したとたんに「このためだったんだ」って思う。
それってすごくゲンキンだけど、この世界はそういうものなのかもしれない。

 

私と世界はつながっている。
そんな風に思えてきました。