Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「好きな仕事」の中にある「嫌い」

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今日配信のPodcastは「好き」と「仕事」について。

クリエイティブの反対語

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私は社会人になってから6年半くらいエンジニア(Notプログラマー)だった。基幹系システムを導入する人。

やりがいもあったけれど、いろいろあって「辞めよう」と決意した。

どうせ働くなら、働く中身を好きなことに変えようと思った(イラスト参照)。

好きなことの中の嫌いなこと

書くことが好きだからライターになったんだけど、ライターとは基本的に「情報」を伝える人だった。特に、雑誌時代に大事なのは「流行」だった。

そこで私は知ってしまう。圧倒的に「情報」や「流行」に興味がない。

 

ただ、そのことを知るのにも随分かかった。

「スキルが不足している」と「好きじゃない」は見分けがつきづらい。(※これ結構ポイントで、両方ってこともある。新人ライターの頃の私は両方)

 

まず企画がなかなか出せないので、能力が不足していると思った。

だけど、たくさん企画出しの練習をしていったら、「情報」や「流行」でない企画なら比較的楽に出せることが分かった。

スキルが付いてきたらようやく、好きじゃないことの見分けがついた。

 

好きな仕事の中にも、「好き」と「好きじゃない」が含まれている。

それをちゃんと、意識できるといいんだと思う。

 

普遍的なことが好きで、流されていく情報は好きじゃない。それがわかるだけで、ハッピーになれる仕事が見つけやすい。

つかむのは自分だから、見分けがつかないことには始まらない。

 

まあ、私にとってはなかなか難しいんだけど。

わかりあえる人を求めている、のか?

ある好きな人と、ある著名な方がツイッターですごくわかりあってやりとりしているのを見て、いいなあって思っていた。

 

ちょうど嫉妬について考える機会があったから「これも嫉妬なのかな?」て書いたら「とっちーはわかりあえる人を求めてるのかもね」と言われた。

「嫉妬は求めていることの裏返しだから」と。

 

何この人エスパーかな?

って感じたくらい「はい、求めてます」って思った。

同時に、そんな気持ち知らなかったよ、って思った。

急に裸にされたみたいに恥ずかしくなった。

 

これが(最近たまにある)私の中のアンモナイト(あるいは宝石みたいなもの)を見つけた瞬間で、

見つけた瞬間あまりにも眩しくて苦しくて柔らかくて、

ぼろぼろと涙がこぼれた。

 

私はどれだけ、自分の本当の気持ちを自分にも隠して生きてきたのだろう。

 

その気持ちをツイッターで吐露したら、

「えみさんが本気出せば絶対出会える」って言ってもらえた。

 

人とはわかりあえないと思っていて、

わかりあえないからこそ美しいとも思っていて、

頭ではそう思っているのに、

心ではわかりあうことを求めている。

 

わかりあおうとすると、きっと傷ついたり、がっかりすることも増える。

だから期待するのを避けていたけど、

わかりあおうとしてみようかな。

いままで諦めてたけど、本気で取り組んでみようかな。

 

そんな感じ。

出しゃばるのはみっともないのか

小さなころは、もうありとあらゆることに出しゃばっていたような気がする。

だけどいつからか出しゃばることはみっともないと思うようになった。

だけど、「いつからか」なんて本当は嘘っぱちで、実はおそらくあれだろうな、という経験がある。でもまあ、ここでは省略する(本題になかなか入れなくなってしまう)。

 

ただ、たいていの人は似たようなことを思っていると思う。小学校高学年くらいから「みっともない」と思って自分を抑えるようなこと。私はその気持ちをとても美しいと思ってはいるのだけど。ときどきいろいろなことの邪魔になるよね。

 

自分をマイノリティと思うか?

最近、みっともないと思う気持ちを放り投げて「やっちゃえば?」って思うことが多い。

 

先日、こども哲学の勉強会に出席して、大人同士で哲学対話をした。話の流れが「自分をマイノリティと思うかどうか?」みたいなところになり、私はこう答えた

「たぶん自分をマイノリティと思ったことはない。学校では先生たちの期待に応えるのがまあまあ上手いほうだったし。ただ、出しゃばってはいけない、だいたい普通くらいにとどめよう、と思って行動のスピードを抑えたりするようなことは往々にしてあった。つまり『ふつう』を目指すというか。でも最近はそれを気にせず『一番張り切っててもいいじゃない』と思えるようになった」

 

そこで「なんで最近は気にしないようになったのですか?」と聞かれて、うーんやっぱりコルクラボなのかなあ、と思った。

 

コメントが相手に安心を与える

出しゃばれなかったのは、出しゃばることで受ける不利益があったからなんだと思う。

周囲に引かれたり、「痛い人」と思われたり、もろもろ。

 

だけど、コルクラボで最初に学んだのは「私のコメントが、誰かの安心安全を作っている」っていうこと。

それまで私は、SNSのコメントを積極的に書く人は「自分も書いてほしいから先に与えている」のだと思っていた。目をつむって「いいね」を押すような・・・。

そういうのに拒否感があったから、誰かへのリプライやコメントは、すごく書きたいときにしか書いていなかった。しかも、私のほうがコメントが多かったらちょっと恥ずかしいような寂しいような気もしていた。

 

だけどそうじゃない。

自分の利益のためじゃなくて、コメントすることで、相手に安心を与えることができる。

それは価値観がすごく変わったことだった。

 

さらけ出す人えらいぞ、というスタンス

コルクラボでは、「さらけ出す」ことが良しとされている。

人に言えないことを話したり、やりたいことをやったり、さらにはやりすぎたり・・・。

さらにみんながお互いの安心安全を確保しようと考えているから、さらけ出した人に対してあたたかい。

だからそこで私は「出しゃばってもいいんじゃね?」と思えるようになっていて、それは踏み出したときに誰かが受け止めてくれるだろう、という安心感があるんだと思う。

たとえ受け止めてくれなくても、引きはしないんじゃない? とかそういう。

 

安全ネットのつもりがそうじゃなかった

私がこれまで、出しゃばらないように抑えたり、目立たないように気を付けたりしていたのは、きっと安心安全がなかったからなんだろうな、って思った。

安心安全な場を持っている人は、これまでにちゃんと作って来たか、取りに行っていたんだろう。私は「そんなものなくていいのでは」とか言って強がって、作る努力をしてこなかったんじゃないか。

 

最後の一人になるのは嫌だから、「いつでも抜けられるよ」みたいなスタンスを装う。

つけこまれるのが嫌だから、「全然依存なんてしてないよ」という振りをする。

 

先を見て安全ネットを張っていたつもりが、実は自分を安全ではない場に追いやっていたなんてね。