Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

孤独は人生最大の敵である

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「孤独感って、どれくらい感じる?」を今回のポッドキャストのテーマにしたんだよね。

私にとって、孤独は人生最大の敵である、ということなど。

でも、「孤独にならないためにはなんでもします!」という気持ちになれないのは、プライドがあったり、寂しいのって恥ずかしい、みたいに思っているからなんじゃないか。

 

先日、こんな記事があって、うーんやっぱりそうだな、と。

toyokeizai.net

最後に、「コミュニケーションがなければ、人間は死んでしまう」と書かれているけど、やっぱりそうなんだろう。

コミュニケーションがあっても、孤独を感じることはあるし、孤独に襲われていた頃の私は「死」をある程度近くに感じていたんだろうと思う。

お・・・重たい。でもそういうことだ。

 

※記事内に付けたリンクまとめ

「肥満」より"致死性"が高いのは「孤独」だった | The New York Times | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

自分の「楽しい」を知っているか?

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子どもの頃、不自由だった

子どもって不自由なことが多くて、私は早く大人になりたかった。

まず、自由になるお金がない。

やりたいことができない(お酒、とか夜遊びとか)。

「楽しい」を優先すると、いろいろ怒られる。

 

「楽しい」が悪いことのような気がしてた

欲望のまま行動すると、何だか悪いことが起こる。だって、怒られるんだもん。

勉強しないで遊んでばかりいると、よくないことが起こる。きっとそうだ。

部活だって楽しいことより苦しい練習をした方が強くなれる(というように教えられてきた気がする)。

だからいつしか、「楽しい」がちょっと悪いことのような。「楽しい」を追求してはいけないような気持ちが根付いていたんじゃないか。

 

猪子さんのことば

数年前、YouTubeにアップされていたチームラボ猪子寿之さんの講演。

「人は本当の感覚じゃないものを自分の感覚だと思い込んでいる」というような言葉があった(※うろ覚えなので当時の自分のブログから引用)。

「楽しい」っていう感覚も、ちょっとねじ曲がっていると思う。自分の「楽しい」がよくわからない。

誰かに褒められたから、「楽しい」って思っている気がする、とかね。

 

再度「楽しい」を重要事項に

「私は何がやりたいんだろう」

こんな仕事をしていると、とてもよく考える。

私はライターになったばかりの頃、なんとなく「楽しい」を追求するのは悪いことだと思っていた。

楽しいことは、ラクなこと。ラクなことでは、食べていけない。

そんなものは封印して、食べていけるスキルを身につけようと思っていた。

 

最初はそれでもいいかもしれない。

だけどときどき聞かれる「何がやりたい?」の質問に答えられない。

 

当時は、やりたいものより、人よりうまくできるものをやりたい、と思っていたんじゃないか。

ただ、多少優れていたって、ナンバーワンにはなれない。絶対誰かが上にいる。

ときに、読者のほうが詳しかったりもする。誰かと比較して道を選ぶと、なんだか苦しい。

 

「なりたい姿」を探さない

人より優れていなくたって、「楽しい」ことを考えよう。

「なりたい姿」じゃなくて、「ずっとやってて楽しいこと」を見つけよう。

なぜなら、「なりたい姿」は一瞬だったり、誰かからの見られ方に過ぎないから。

人生とはイコール「時間」だと思ってるんだけど、「楽しいこと」はその「時間」をバラ色に変えられる。

 

「楽しいこと」が見つかれば、それを延々とできる環境を整えればいいだけ。

もしお金になることなら、それは万々歳。

お金にならないことだったら、「楽しいこと」とお金になることを寄せていくのがいいと思う。

 

ほかの人が「楽しくない」自分だけの「楽しい」は価値がある

「楽しい」にもいろいろある。

先日取材した人は、お掃除が大好きな人だった。他の人が嫌がるから、仕事になる。

他の人が楽しめないのに、自分だけが楽しい、には価値があるんじゃないか。

だけどそうなると「結局、誰かとの比較」なのだろうか。それについては、まだ考え中……。

 

子どもの頃「何か悪いことなんじゃないか」と思っていた「楽しいこと」。

人生の道筋を決めるときには、もっと大事にしてもいいと思う。

「恥ずかしい」と戦う

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恥ずかしいことって、いろいろある。何かにチャレンジするのはそのひとつ。

恥ずかしいことは、大人になるほどできないだろうか。

私はそうとも思わない。だって、10代、20代の頃の自意識ってハンパじゃなかった。よくも悪くも今は、自意識がそれほど尖っていないし爆発してもいないし、自分をある程度客観的に見られるようになった。

 

「イタイ」は恥ずかしい?

私はずっと恥ずかしかった。例えば、何歳かも覚えていない頃にノートに書いたお話。小学生の頃にこっそり書いていたポエム的なもの。アニメっぽいイラスト。大学生の頃に書いていた日記、社会人になってから作ったホームページやそれに載せた散文。

 

うまくいかなかったら恥ずかしい?

SEを辞めようと思って「書く仕事がしたい」と人に言うのは恥ずかしかった。20代も終わり頃。

それを聞いて「小説家か・・・」と言葉を失った上司、「エッセイみたいなやつでしょ?」と言う先輩、「書いたことあんの?」と言ったスイス人(ハワイで一緒にホームステイしていた人)。

 

低評価だと恥ずかしい?

ポッドキャストを配信して、人気が出ないと恥ずかしい? ブログのPVが少ないと恥ずかしい? あとは、小説的なものを書いて、誰にも読まれなくて、誰からも評価をもらえなかったら恥ずかしい?

 

自尊心が強いと思われると恥ずかしい?

自撮りをアップしたり、自分の記事をシェアしたりすると、自尊心が強いと思われて恥ずかしい? あとは自分のホームページで自分の紹介をするのも恥ずかしい?

 

恥ずかしいことはたくさんある。恥ずかしいってことは、私が人のことをそう見てるってことだ(たぶん)。

「あの人イタイ」

「あの人のあれうまくいっていないな」

「あれ、全然よくない」

「あの人、目立ちたいんだな」

でも、恥ずかしがっていたらどこへも行けないと、少しずつ学んでいる。

 

ツイッターにも書いたけど、私は人よりいろいろなことに気付くのが遅いみたいだ。

今さらだけどいろいろなことに気がついたから、自分の「恥ずかしい」と戦っていく。