子どもの頃、不自由だった
子どもって不自由なことが多くて、私は早く大人になりたかった。
まず、自由になるお金がない。
やりたいことができない(お酒、とか夜遊びとか)。
「楽しい」を優先すると、いろいろ怒られる。
「楽しい」が悪いことのような気がしてた
欲望のまま行動すると、何だか悪いことが起こる。だって、怒られるんだもん。
勉強しないで遊んでばかりいると、よくないことが起こる。きっとそうだ。
部活だって楽しいことより苦しい練習をした方が強くなれる(というように教えられてきた気がする)。
だからいつしか、「楽しい」がちょっと悪いことのような。「楽しい」を追求してはいけないような気持ちが根付いていたんじゃないか。
猪子さんのことば
数年前、YouTubeにアップされていたチームラボ猪子寿之さんの講演。
「人は本当の感覚じゃないものを自分の感覚だと思い込んでいる」というような言葉があった(※うろ覚えなので当時の自分のブログから引用)。
「楽しい」っていう感覚も、ちょっとねじ曲がっていると思う。自分の「楽しい」がよくわからない。
誰かに褒められたから、「楽しい」って思っている気がする、とかね。
再度「楽しい」を重要事項に
「私は何がやりたいんだろう」
こんな仕事をしていると、とてもよく考える。
私はライターになったばかりの頃、なんとなく「楽しい」を追求するのは悪いことだと思っていた。
楽しいことは、ラクなこと。ラクなことでは、食べていけない。
そんなものは封印して、食べていけるスキルを身につけようと思っていた。
最初はそれでもいいかもしれない。
だけどときどき聞かれる「何がやりたい?」の質問に答えられない。
当時は、やりたいものより、人よりうまくできるものをやりたい、と思っていたんじゃないか。
ただ、多少優れていたって、ナンバーワンにはなれない。絶対誰かが上にいる。
ときに、読者のほうが詳しかったりもする。誰かと比較して道を選ぶと、なんだか苦しい。
「なりたい姿」を探さない
人より優れていなくたって、「楽しい」ことを考えよう。
「なりたい姿」じゃなくて、「ずっとやってて楽しいこと」を見つけよう。
なぜなら、「なりたい姿」は一瞬だったり、誰かからの見られ方に過ぎないから。
人生とはイコール「時間」だと思ってるんだけど、「楽しいこと」はその「時間」をバラ色に変えられる。
「楽しいこと」が見つかれば、それを延々とできる環境を整えればいいだけ。
もしお金になることなら、それは万々歳。
お金にならないことだったら、「楽しいこと」とお金になることを寄せていくのがいいと思う。
ほかの人が「楽しくない」自分だけの「楽しい」は価値がある
「楽しい」にもいろいろある。
先日取材した人は、お掃除が大好きな人だった。他の人が嫌がるから、仕事になる。
他の人が楽しめないのに、自分だけが楽しい、には価値があるんじゃないか。
だけどそうなると「結局、誰かとの比較」なのだろうか。それについては、まだ考え中……。
子どもの頃「何か悪いことなんじゃないか」と思っていた「楽しいこと」。
人生の道筋を決めるときには、もっと大事にしてもいいと思う。