Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

バレーボール! バレーボール! バレーボール!

昨日、小学校のバレー部に行ってきた。

同じクラスのママ友に、先日の保護者会で突然「バレーボールやってたんでしょ? 入らない?」と言われて。

何となく興味はあったけど「子どもがまだ小さいし大変だよな」と思ってアクションを起こさないでいた。だけど、誘われれば「まあ、行けるか」という感じで。

外履き用に買った、コンバースのまがい物みたいなアディダスのハイカットスニーカーの靴底を雑巾で拭いて持参した。

 

行ってみたら、まあー楽しかった。どうしてこんなに楽しいのか。

過去のバレー歴

私は小3の終わりからバレーボールを始めて、高校3年まで約9年間続けていた。まあ控えめに言っても「私の青春」といえる。

何度も書いているけど、小はキャプテン、中は副キャプテン、高はキャプテンで、中3~高校は毎日練習があって割と厳しかった(つまりかなりまじめにやっていた)。辛い思いもたくさんあったけど、それによってやっぱり体に染みついている。

で、私は割とポジショニングが上手だったんだよね。ボールの方向が読めるとか、そういうの。あとはネットに当たったこぼれ球の処理とか、(自分で言うけど)器用にやる。普段は腰の位置が高いくせに、ネット処理の時だけちゃんと下で待ってる。

そういうのは、「体がついていかない」とかに関係ないわけだ。ボールが来る場所はわかるし、自分のポジション取りもほぼわかるし、どこで力を抜いてどこで力を入れるかもわかる。(私は省エネプレーヤーでもあった。疲れにくいプレースタイル)

わかるって楽しい

つまり「わかる」ってこんなに楽しいことなんだなーと思って。

あとはママさんバレーなので、いくら二十年(以上)ぶりとはいえ、突然「そこそこ上手い」人になれる。昨日はいきなりセッターポジションもやらせてもらった。

小と中3~高はセッターだったので。(中3で転校してる)

名前も知らないけど、仲良くなれる

子どもを見ていると、自己紹介もしていないのに、名前も知らないのに、鬼ごっことかボール遊びとかしてすぐ仲良くなっちゃうの、あるでしょ。

そういうものがある。大人にもあるんだ、あれ。

プレーを見て器用な人、力強い人、安定してる人、などわかるし、うまくいくとハイタッチしたり勝手に声が出たり応援したり励ましたりする。

歓迎された

あとは、部員が足りないみたいで。入ると言ったらすごく歓迎された。もうこれは単純に嬉しい。

想像の100倍楽しかった

本当に! 思っていたより100倍楽しかったんだよね。

最近体を動かしていないのもあるだろうし、考えてみたら、どうして9年間も続けていたかって、理屈じゃなくてバレーが好きだったから。

離れてから「背が高い方が有利なスポーツなんて理不尽」とか思ったり「チームプレーは不自由」なんて思っていたけれど、もう好きなんだからしょうがないっていうか。

 

昔恋していたものに、長い歳月をかけて再び出逢ったような。

そんな七夕の夜でした。

記憶力と感情と人工知能

ポッドキャスト「クリエイティブの反対語」で、記憶力について話した。

emitochio.net

そこで「感情が伴うと記憶に残る」という話をした。

そのあと、TakramさんのPodcastを聞いて、

soundcloud.com

すべての記憶を忘れ(られ)ない人工知能が・・・、といった仮定の(?)話をしていて、やっぱり人間って忘れられる分よくできているなと思った。

 

(ここからは、私の頭の中)

結局いま、ビッグデータがあるだけでは(つまり全部の情報を対等に覚えているだけでは)うまく使いこなせなくて、そこでデータアナリストといった人が有用なデータをどうにかして取り出さなくてはならない、ってことになっている。

人間は(おそらく他の生き物も)、そこに感情という重みのあるタグを付けることで、精密なインデックスの代わりにした。記憶とは、覚えるだけじゃなくて取り出せなくては意味がない。取り出すために、感情が必要なんだろうと思う。

いまはまだ、人工知能に感情が生まれていない(はず)。それは、機械が人間に近づこうとしたときには大きな壁になるんだろうな。

感情があるのと、感情があるように見えるのは同じこと、という議論も確かあったと思う。本当に優しい気持ちからやさしくする人と、気持ちがないけど優しい振る舞いをする人は、外から見ると同じだ。

だけど感情とは外に対してだけじゃなくて、内側に対して必要なんだろうと思う。記憶をするため、記憶を取り出すため、大事なことを見分けるため。

今後もし、人工知能に感情が生まれたら(生まれるというより、最初はネガティブとポジティブに重み付けをするくらいなのかもしれないけど)、私はついに来るべきときが来たかと、ちょっとがっかりしてしまうような気がする。

より自分に近いのはどれなのか

本当の自分なんて、どこにもないんだけど。

ただ、私はある程度いろんなものを書いたり描いたり話したりして発信していて、それぞれでキャラクターが異なるように思う。

安田さんのPodcastと、自分でやっているクリエイティブの反対語が別人のようだ、とリスナーさんに言われたこともあるし。(聞いてくださってありがとうございます!)

最近ブログ読んでます、note読んでます、と行ってくださった方がいて、私は何となくブログの方を読んで欲しいなと思ったんだよね。

 

ここは本当に独り言なのでまとまっていなくて読みづらいことこの上ないと思う。

でも、その時の自分の考え、つまり蛇口からジャージャー出たものを、溜めてあるところ。だけどその分(殺菌してないから)腐っちゃうこともあるのかなーとか。

noteの方は基本創作だし、当然ながら人に読んでもらうためにわかるように書いているので、そのままの私じゃなくてパッケージングされているよな、と思ったわけですね。

だけど最近書いたやつとか読み直してみたら、ちょっとこれ裸じゃん! みたいなのがあって。もしかしたらこっちの方が素なの? みたいな。

これは何に例えられるのだろうか。ちょっとグロいけど、結局は自分の皮を剥いでパッケージングしてるってことなのかな。だから生々しいのかな・・・(稚拙とも言う)。

 

より自分に近い、なんてやっぱりなくて、仕事で礼儀正しくしてるのも本当の私だし、仲良くなったとたんつい失言しちゃうのも、夜中に書いたポエムを朝読んでオエーってなっているのも私なわけで。

そんなことをつらつらと。