Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「好き」「やりたい」を見つける方法

私なりの、経験上の、「好き」とか「やりたい」を見つける方法を書いてみようと思う。

結論を先に言うと

「ちょっと好き」なことをどんどんやる

ってこと。それだけ。

でも、行動しなくてはいけないので言うほど簡単じゃないと思う。

「好き」や「やりたい」が見つからない人って、下記のような特徴があると思う(何を隠そう私がそうだった)。だから、ひとつずつ書いていく。

 

ちょっと好きなことはあるけど「大したことない」と思っている

読書は好きだけど、「読書家」ってほどじゃない。

テレビドラマは好きだけど「マニア」ってほどじゃない。

絵を描くのは好きだけど、全然上手じゃない。

とか。

すごく詳しい人とか、すごく上手な人を見ているから、自分を大したことないと思ってしまう。大したことなければやる意味ないと思ってしまう。だからやらない。

 

そうじゃなくて「楽しい」「好き」ってことが大事なのだから、そう思うことをやればいい。下手でも絵を描けばいい。誰かと比べなくていい。

描くことで、驚くほどの発見がある。やった人にしかわからない。絵を描く以外のことにも通じる発見がある。

発見があると、別の景色が見える。

別の景色が見えると、別のことがしたくなる。

それを続けていくと、私は人の顔を描くのが好きなんだとか、気持ちを表すのが好きなんだとか、ポーズを描くのが好きなんだとかわかる。

色鉛筆が好きだとか、ボールペンが好きだとか、水彩が好きだとかわかる。

で、もし見つからなかったら、それでもいい。何となく、ちょっと描くのが好きなだけでいい。

途中でやめてもいい。少ししてまた気になったら、またやればいい。

 

それで食おうと思うと大変なんだけど、ちょっとしたことができると重宝される。

例えば毎日YouTubeをめちゃくちゃ観てる、ってだけでも、そういう人はそれほどいないのでマーケティング的に重宝されると思う。

みんな生活が多様になってきたから、みんな希少性が高いのだ。

だから、ちょっとでも実は「大したことある」のだ。

 

「好き」という感情を見逃してしまう

実際、私たちは好きな感情を誰でも持っていると思う。

だけど、大切にしていないと、見逃してしまう。

 

「ご飯何でもいいよ」とか。

「仕事だから文句言わずにやる」とか。

「やるのが苦痛だけど深く考えない」とか。

 

「好き」という感情が日常的に現れてこないので、ときどき軽い「好き」が現れても見分けが付かない。

好きなことを小さくてもいいのでたくさんやっていると、生活に「好き」がたくさん現れる。

そうするとその中で「すごく好き」「ちょっと好き」の見分けが付くようになる。

「あーこれは、まじずっと好きになれるやつ」と瞬時にわかったりする。もちろん「好きじゃない」もすぐにわかる。

 

好きなことをしていない自分に慣れすぎている

「好きなことをしている」自分が、当たり前ではない状態だと、それが普通になってしまう。全く違和感がなく生活できてしまう。

さらには、好きなことばかりやっていると罪悪感すら覚えるようになる。

まず、そこから脱却したい。

 

小さな「好きなこと」をたくさんすると、「好きなことをしている自分」に慣れていく。「好きなことをしている自分」が当たり前になっていく。

そうすると、「ものすごく好きなことをしている自分」にどんどん近づいていく。

それはダイエットで「細いカラダになっている私」をイメージして、「痩せている自分が当たり前」になるのと同じような感じかも。

 

結論:「ちょっと好き」なことをどんどんやるとどうなるか

私、今「好きなこと」や「やりたいこと」であふれているように見えるみたいなのだけど、昔は全然書きたいものがなかった。

書くことが好きなんじゃないか、と思ったのは、日記だけはずっと続けてきたから。でもそれも毎日書き続けてきたわけじゃないし、何年も休んでいることもザラだし、それほど価値のあることとも思えなかった。

ただ、飽きっぽい私が唯一続けてきた(と言っても何度も言うように何年も休んだりするんだけど)のが読書と日記だった。

 

ただ、ライターになっても書きたいものが見つからず。

どうしていいかわからなかったのだけど、ある本を読んで影響を受け、好きなことを手当たり次第いろいろやることにした。

ピアノを習ったり(妊娠したので辞めた)、ポッドキャストを始めたり、短編小説を書いたり、下手なイラストを書いてみたり、ジャズダンスを習おうと検討したり(習わなかった)、こども哲学に足を踏み入れてみたり、作曲をしようとしてみたり(スタート前に挫折した)。

できるものだけやる。続かないものは辞める。辞めたことに罪悪感を持たない。

それだけで好きなことをちょっとずつやることになる。そうすると、「好き好き!」っていうことに触れたときにセンサーが反応するようになってきた。

仕事でも「ああ楽しい」とか「何それ楽しそう」っていうときに、わかるようになってきた。

そうすると、「好き」「楽しい」と思う方向に進めばいいので、割とラクになってくる。

「好きなことをしている自分があたりまえ」になると、無理なく生きられるというか。

好きじゃないことをやらなきゃいけない場合ももちろんある。でも自分をちゃんと納得させられるし、好きじゃないことが増えすぎたら対策をするように考える。

私の中では、それぞれの仕事がちゃんと色分けされて見えている。

 

ひとつに絞れなくてもいいと思う。リソースが分散されてしまうので焦る気持ちもあるけれど、私という人間はひとりなのだから、何となく芯は近いものがあるし、近くなくても組み合わせて何かしらできるような気もする。

今はいろんな好きなもの、取り組んでいるモノの共通点を見つけたり、横から後ろからの視点で眺めたりして、絞らない方がいいのだろうと思っている。

AはBになれるけど、BはAになれない

TakramのPodcastを聞いていて「理系と文系にどちらに進むか迷ったとき、『理系の学者が文系の学者になることはあるけど、逆はない』と思って理系へ進んだ」と言っている人がいた。

確かに。なぜなのか。文系の学者が理系に比べて簡単だというわけではないだろうけど、おそらく性質が違うのだ。

似てるのかな? と思ったのが、「クリエイターはディレクターになれるけど、逆はない」ってこと。クリエイターっていうのはものづくりをしていて、さらにプロフェッショナルな人ってことね。デザイナーとか、プログラマーとか、かな。

共通点があるのかないのか。

 

「AはBになれるけど、BはAになれない」

と言うときのAに共通するのは、Aになるまでに圧倒的な時間の量(つまり修行期間)が必要だってことなんじゃないか。

プロフェッショナルなデザイナーは美術学校を出ていたりするし、プログラマーはやっぱり「使えない下積み時代」を経ていたりする。何を隠そう私もライターとして「書けるようになったな」と思うまで実は5年以上かかっている(それまでお仕事でギャラをもらっていてスミマセン、って感じ)。

理系の学者は、文系の学者に比べて「知らなきゃいけない」ことが圧倒的に多くて、それには大量な時間が必要なんじゃないか。

かたや、Bって感覚的なものが大きいような気がする。センスや感覚があれば、割とすぐにできちゃう人がいる。あるいはそれがなくても何となくできた風に見せることができる。絶対にこのスキルがこれくらいできなきゃダメ、みたいな指針が少なそう。感覚とかセンスが大きいから、そもそも絶対になれない人もいる。「マネージャー業が全然できない元技術者」とかが、たぶんそうだ。修行期間の有無ではないのだ。

 

だから、Bだけで過ごしてきた人は、Aの価値があまりわからないし、Aのひとは「ひょい」といろいろやってのけてしまうBの人を疎ましく思う。

 

そんな仮説を立ててみたんですが、どうかな?

「心を開く」とはどういうことか

とてつもなく「寂しい」ときがある。

寂しくないように、どうすればいいか。これまでにもいろいろ考えてきた。「寂しい」という状態にならないようにいろいろ試すことはできるけど、「本当に寂しいそのとき」にどうすればいいのかまったくわからない。今でもわからない。

感情には正体がある?

昨日、ある人に「怒りの正体は甘え」と聞いた。私はすごく腑に落ちた。私の場合は、上司や子どもに怒りを感じることがあるけれど、それは相手が私が怒っても許してくれるだろうと甘えているからで、それはものすごく自覚ある。遠慮している人(甘えられない人)には、怒りが湧かない。

それなら、「寂しい」にもきっと正体があるはず。私はググった。ググった結果、ある本にたどり着いた。でもその本のAmazonページを見てもさほどそそられなかったので結局Amazonでググった(矛盾)。

買ったのはこんな本。Kindleで買った。

「外面的なつながり」ではなく「内面的なつながり」

6章が「寂しさ」で、ボリュームはとても少ない。

ただ結論から言うと、難攻不落だったいろんな場所の鍵がカチャカチャと、次々と開けられていった。あれもこれもあれも、まさかあれもそうなの? という感じ。

まずはこんなことが書かれていた。

「つながり」が感じられないとき、私たちは「寂しさ」を感じるのです。

それはもちろん「外面的なつながり」ではなく、「内面的なつながり」です。

内面的なつながりについては

「内面的なつながり」とは、ありのままの自分をさらけ出しても安心して受け入れてもらえる関係のことを言います。

今まさに、自分にはそういう関係がない、と感じていたところ!! ありのままの自分をさらけ出すなんて、傷つきに行くようなものじゃないの……。

外面的なつながりを求めていても、寂しさは消えない。

ああ、ですよね。そうかなと思ってた。ちょっと思ってた。外面的なつながりでもたくさんあればちょっとは寂しさ消えるよ? でもそれじゃ足りないんだよね。

「与えるもの」「心を開く」

ただちょっと、希望の光が差してきた。

「親しい誰か」がいなくても寂しさを手放せる。

え、ほんと? 手放したい、手放したい、手放したい。

まず知っておきたいことは、つながりは、与えられるものではなく、与えるもの、ということ。

おお、そこでこれが出てくるのか。「与えるもの」だなんて、しらなかった。私に足りなくて、でもいま目指そうとしているところ。

この本は、たとえば少額の寄付だったり、感謝の気持ちを込めながらの掃除だったり、自然に感謝したり、そういうことも内面的なつながりで、かつ「与える」ものだという。今話題のpolcaは、寄付することで寂しさを埋めるアプリなのかもね。

ポイントは「『つながる対象』があるかないか」ではありません。

「自分の心が開いているかどうか」です。

きたこれ。自分の心を開くって、最初に出てきた「ありのままの自分をさらけ出す」ってことだよね。

自分の心が開いている限り、本当の疎外感は味わえません。

私が疎外感を味わったり、寂しさを感じるのは、自分の心が閉じているからなのかな……。

寂しさの正体がわかると、私は条件が揃いまくりだとわかった

私はだいたいにおいて自分をさらけ出していないと思う。最近は以前よりずいぶん開くスピードは速まったような気がするけれど。

だからブログを書く

自分の気持ちを誰かに出せないから、誰かに受け止めてもらう自信がないから、さらには誰かに話してそのリアクションで辛い思いをしたことがあるから、ブログに書く。

そうすることで、少し自分を開くことができる、ってことじゃないのかな。文章を書く場所がないと生きられない。

 

だから小説や漫画で寂しさが紛れる

私は子どもに読み聞かせをしながら泣くし、マンガや小説を読みながら電車でニヤニヤしたり泣いたりする。それは最近のことなんだけど、そこで自分の感情を表に出しても自分は何も傷つかない。自分の感情を出せるという意味で、救われるのかなって思った。

なぜ心を開けないのか?

心を開ける人は、どうして開けるんだろう? 私はどうして開けないのか?

心を開くってどういうことなのだろう? まず簡単に言うなら、感情を表に出すってことだ。

私はそもそも、感情って隠すものだと思っていた。なぜだか考える。

毎日泣いていた小学校低学年

小学校低学年のときは、本当に毎日のように泣いていた(今の長男もそうらしい……w)。それくらい、感情の起伏が激しいというか、よく言えば感受性が豊かなのかな。

「泣くのを恥ずかしいって思わないの?」

と母に言われた覚えがある。そのとき、すごく驚いたよね。え、泣くのって恥ずかしいの? って。

感情って隠すものじゃないの?

ほかにもいろいろあって、感情って隠さなくてはならないんだ、と少しずつ思うようになっていた。たぶん人より振れすぎているから、隠さないとバランスが取れないというか、おかしなことになってしまうのだ。

だからときどき、唇の横が震えたり、目に涙を浮かべたり、不自然なほどの真顔になっていたりして、感情を隠さない人がいるとあけすけですごいな、って思う。私はまず感情を隠すためにどう話すか(話さないか)、どう動くか(動かないか)、を考えてしまう。

正直に話してスルーされたときの辛さ

「言ってくれればいいのに」とか「何でも聞くよ」とか言うのは簡単で、それを信じて話してみたら受け入れてくれない、なんてことは山ほどある。大事なことと気づかれないままスルーされたり、「大事なことなんだよ」と言っても「私はこの話がしたい」と言っても、相手にはぴんと来ない。

それは相手が優しくないとかじゃなくて、人ってそういうものなんだと思っている。

それに、相手が大事な話だと思えないのは、私が感情を表に出していないせいなのかもしれない。サラリと、何ともないように言ってしまうから。そこから辛さを嗅ぎ分けてくれるケースは本当に少ない。一度嗅ぎ分けてくれたから次も大丈夫だろう、と思うとそうでもないしね。

全然与えてない

もう、全然与えていない。

与えてもらうこと、してもらうことばかり考えているのがありありと。それって人の話を聞いてあげるとかじゃないんだろうな。聞いてあげたから聞いてもらえるってわけじゃないから。

私の場合は、人に対して心を開くことにことごとく失敗してきたから(もちろん自分のせい)、今のようなやり方に落ち着いた。

でも「寂しい」は全然解消されていないから、何か考えなくてはいけない。「内面的なつながり」を生むために、自分から心を開き、自分から与える方法。

 

それにしても、我ながら本当にメンドクサイやつだと思うね。