Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

物語を書くようになってわかったこと

noteというブログサービスで、短編小説を書いている(リンク)。

短編でも、書くことによる学びは恐ろしいほどにあって、ライターとしてのライティングといわゆる創作というものはずいぶん違いがあるのだとわかる。

わかったのは、普段書く記事との違いというよりは、他の創作物、特にドラマや映画との違い。

先日、「Nのために」というドラマをAmazon Primeで観て、とてもよかったので原作をすぐに買って読んだ。著者は湊かなえさん。

それにより、ドラマや映画と、小説の違いをすごく意識することになった。

心理描写について

ドラマや映画は、心理描写をあまり言葉にしない。登場人物の行動や台詞で表すのが普通だ。あと、俳優さんの表情。それを、観る方が読み解くわけだ。心の中をこと細かに説明する映像作品もあるけど、少々野暮なのでは、と感じるのは私だけなんでしょうか(観るときには気にならないんだけど、自分が作るとしたらそう感じると思う)。

小説(一人称の場合)は、心で思っていることを簡単に言葉にできる。「こう言いたいけど、やめておこう」とか「本当は手を繋ぎたかった」とか。

そういったことを映像や台詞で表現するのってすごく大変だ。「こう言いたいけど」を表すためには、事前に「そう思っている」ということを誰かに伝えておくとか、言いたいことを「もの」に変えて(例えば手紙とか?)それを後ろ手に隠すとかしなくてはならない。同じように、手を繋ごうとする仕草ってすごくわざとらしくなりがちだし(そういう映画は多いけど)、「手を繋ぎたい」を表情で表すのは非常に難儀だし、手のアップにして握りこぶしを少し緩める仕草とかちょっと伝わりづらい。書くようになって気がついたけど、映像ってそういう細かなパーツの積み重ねなんだね。

だから逆に言うと、小説という媒体を生かすなら、心理描写は重要かつ強力な道具のひとつなんだと思う。(三人称の小説はどうなのだろう。そういえば書いたことがない。今度挑戦してみよう。たぶんまた、新たな発見がある。)

台詞について

逆に、台詞ばかりの小説は、ちょっと陳腐になるよな、と思う。それなら脚本でいいじゃないか。でもまあ、好みの問題ではある。

解像度の自在さ

時間の伸び縮み(説明の解像度というか)は、文章の方がコントロールしやすい。「私たちは兄弟のように仲良かった」と一文で書くこともできるし、兄弟のように仲のよかったエピソードを何十ページにわたって書いてもいい。ただ、解像度の低い文章ばかりを書くと、ただのプロットみたいになる。解像度が高すぎると、読むのが疲れる。

映画やドラマはそうはいかない。主人公のナレーションで「私たちは兄弟のように仲良かった」と入れてもいいけどそんなに頻繁には使えない。仲のよかった様子を具体的な台詞や行動で表さなくてはならない。あるいは、誰かにそう話しているシーンを入れるか。すべてにおいて、そうなのだ。

より「自由」な小説

小説は自由だ、というようなことを、私が敬愛してやまない森博嗣先生は著書でおっしゃっているけれど、本当にその通りなんだと思う。こうしてみると、小説の方が自由度が高い。だけどそこに、その人なりの美学は色濃く表れていて、それに捕らわれるからこそその人なりの「型」ができるんだろうと思う。

 

ほかにも気づいたことや学んだ(学んでいる)ことはたくさんあるので、思い出したらまた書きます。