Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「恥ずかしい」と戦う

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恥ずかしいことって、いろいろある。何かにチャレンジするのはそのひとつ。

恥ずかしいことは、大人になるほどできないだろうか。

私はそうとも思わない。だって、10代、20代の頃の自意識ってハンパじゃなかった。よくも悪くも今は、自意識がそれほど尖っていないし爆発してもいないし、自分をある程度客観的に見られるようになった。

 

「イタイ」は恥ずかしい?

私はずっと恥ずかしかった。例えば、何歳かも覚えていない頃にノートに書いたお話。小学生の頃にこっそり書いていたポエム的なもの。アニメっぽいイラスト。大学生の頃に書いていた日記、社会人になってから作ったホームページやそれに載せた散文。

 

うまくいかなかったら恥ずかしい?

SEを辞めようと思って「書く仕事がしたい」と人に言うのは恥ずかしかった。20代も終わり頃。

それを聞いて「小説家か・・・」と言葉を失った上司、「エッセイみたいなやつでしょ?」と言う先輩、「書いたことあんの?」と言ったスイス人(ハワイで一緒にホームステイしていた人)。

 

低評価だと恥ずかしい?

ポッドキャストを配信して、人気が出ないと恥ずかしい? ブログのPVが少ないと恥ずかしい? あとは、小説的なものを書いて、誰にも読まれなくて、誰からも評価をもらえなかったら恥ずかしい?

 

自尊心が強いと思われると恥ずかしい?

自撮りをアップしたり、自分の記事をシェアしたりすると、自尊心が強いと思われて恥ずかしい? あとは自分のホームページで自分の紹介をするのも恥ずかしい?

 

恥ずかしいことはたくさんある。恥ずかしいってことは、私が人のことをそう見てるってことだ(たぶん)。

「あの人イタイ」

「あの人のあれうまくいっていないな」

「あれ、全然よくない」

「あの人、目立ちたいんだな」

でも、恥ずかしがっていたらどこへも行けないと、少しずつ学んでいる。

 

ツイッターにも書いたけど、私は人よりいろいろなことに気付くのが遅いみたいだ。

今さらだけどいろいろなことに気がついたから、自分の「恥ずかしい」と戦っていく。

作業手順どおりに教えちゃいけないのでは

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タイトル通りのことを、考えてました。

 

やり抜く力に必要なもの

先日GRIT(やり抜く力)という本を読んだのだけど、そこにはこんなことが書いてあった。

やり抜く力を持つ人は例外なく、最初に楽しい経験をしていたのだという。

技術を上げるための練習はとてもきついものだけれど、スタート時点で楽しくてしょうがない時期があった。おそらく、だから続けられるのだ。

私も確かに身に覚えがある。小中高と9年間バレーボールを続けていたが、練習は辛かったし、休みになると嬉しかった。でも大前提として、バレーボールがとにかく好きだった。

理屈でなく好きになった理由は、スタート時がとにかく楽しかったんだと思う。

 

先に枝葉を散々やってから基本を知る

子供の頃、絵を描くのが結構好きだった。写生大会のようなものも、アニメの真似っこもした。ただ、子どもながらに、漫画っぽい絵を描くのは「イタイのかも」と感じて隠してたけど。

漫画の描き方みたいな本も読んで、直線とか、服のシワとかもちょっとだけ、練習したことある。でも結局そんなに夢中にはなれなかった。

 

最近「漫勉」ってテレビ番組があって、漫画家さんの制作現場をカメラで何日も密着する。それはそれは、面白い。

当たり前なんだけど、プロでもちゃんと下書きしてから描くんだという事実。顔を描くときに、丸を描いて十字の線を描く「アタリ」も人によってはちゃんと描く。

私はこれまで、落書きには「一発描き」ばかりしてきたけど、試しにアタリを描いてから下書きして、清書してみた(万年筆だけど)。

そうするとすごくバランスが取れて、上手く描けるしラクだってことがわかった。

後から基本をやるとこんなにしっくりハマって、ラクなんだ。

 

書き散らかしてからか構成のありがたみを知る

文章についても、考えてみる。構成(骨子)のありがたみがわかるのは、ずいぶん書けるようになってからではないか。

枝葉にあたる文章が書けないうちは、構成を作ってもそんなにスピードが変わらないんじゃないか。

構成の精度の問題もあるだろうけど、予定どおりに進まなかったり、構成を大事にするあまり文章が単調でおぼつかなくなる。

でも、文章をある程度書いて、慣れると、構成が活きてくる。構成があるとずっとラクだし、構成の精度も上がる。

 

新しいことを学ぶ順番

新しいことを教えるとき、つくる手順どおりにする場合が多いのではないか。でも、同じ順番で進めては上手くいかないこともあると思う。

 

文章の場合、手順としては書く前に構成をつくるけど、学ぶときには書く前に構成をやっちゃダメってことだ。

まず、楽しくない。それは、GRIT的によろしくない。

次に、効果が少ない。ある程度書くことに慣れていないと、ぴんとこない。

 

学校の勉強も、つくる順番に関係なく、楽しい枝葉のことから進められないんだろうか。

好きなことをいっぱいやってから、基礎を習う。そんなことができれば、「開眼する」みたいな体験がたくさんできそうなのに。

 

そう思うと、それができるのは学校ではなくて親なのかもしれない。

宇宙について学ぶ前に、博物館へ行く。歴史について学ぶ前に、建造物を見に行く。数学を学ぶ前に、数学が果たした研究の成果を知っておく。デッサンを習う前に、美術館へ行っておく、とかね。

 

「正しい」より「親切」を選べるか?

今日配信したPodcastのテーマは、「正しい」と「親切」。

emitochio.net

話している内容をざっと紹介すると。

子供に読み聞かせている「Wonder」という本(いま2週目)が発端。

こんな格言が紹介されていた。

「正しいことをするか親切なことをするか迷ったら、親切にしよう」

果たして私は、親切を選べるだろうか? という疑問について話した。

 

この収録では、「いつも『親切』にできる人は『ただのお人好し』ってことなんじゃないの」なんて話してて、実際そう思っていた。

いつもシメの言葉「もうちょっと考えます」を言うんだけど、実際に収録後も考えていく中で「ああそういうことだったのか」とわかったことがあった。

 

実は、最初にツージーが言っていた「どれが正しいかなんてわかんないじゃん」がすべてだった。

 

NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」を思い返して気がついた。

唐沢寿明さん演じる花山伊佐次は、たぶん身に染みていたのだと思う。

戦争中、正しいと信じて、国民が戦争に向かうためのコピーを書き続けた。けどそれが、間違っていたとわかった。

今、戦時中のことを振り返れば、戦争は間違っているということがわかるけど、私が当時生きていたら、たぶん一生懸命に「お国のために」なんて言っていたと思う。

当時は、戦争が「正しい」ことだったのだ。

 

だから「そういうとき」に拠り所になるのが「親切」を選ぶ、ということなのではないか。

で「そういうとき」かどうかを、実際その渦中にいる人がわかるのか? というとたぶんわからないんだと思う。

洗脳されている人が自分が洗脳されているとわからないように。今の私たちも、常識や、信頼できる人の言葉や、これまでの慣習にどっぷり洗脳されていると言えるわけで。

 

だからやっぱり、「親切」を選んで生きていけたらいいなと思っている。

でもすべてにおいて「親切」を選ぶなんて、なかなかできない。

だからその格言は、「迷ったら」って言ってくれている。

そういうことなんじゃないでしょうか。

 

うん、でも、もうちょっと考えていきまーす。

 

※エントリー内のリンクまとめ

#025 「正しい」より「親切」を選べるか? - クリエイティブの反対語[Podcast]Is There Truth?

Wonder(Amazonリンク)