Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

自分の中に粘土の塊をつくる

解決したいことがあったらたくさんの本を読むことが多かった。たくさん読んでいると、最初はぶつ切りだった知識や考え方が、徐々につながって、どこかに集まっていく。

それは私の中で徐々に塊のようになっていき、何か新しい考えに触れたときにその塊と接点があるかどうかで見られるようになる。

 

今、そのころの私とは少し変わって、最近はいろんな人に話を聞くようになってきた。

本を読むように、いろいろな人の考え方を聞いた。そうやって、私のために時間を割いてくれる人がいるのは本当に幸せなこと。

話だけじゃなく、実行もする。自分の体で体験して、実感していく。

 

いろいろな要素を集めると、最初はばらばらだったものが、少しずつ塊になっていく。別の意見のように見えたり、ぴんとこなかった意見が、自分の中の塊を通してつながっていく。それはひとつの塊と、周りにふわふわ浮かぶ塵か羽のようなイメージ。

誰かの話を自分の中にできてきた塊から見ると、なんだかおかしい意見のように見えることもある。そんな時は質問する。すると、納得できる意外な答えが買ってくる。納得できたってことは、塊に加えてもいいんだなと、私は粘土の塊に小さな粘土を付け足すように、それを少しだけ大きくする。

 

そういう塊ができると、考えるのが楽になる。心が安定する。迷いが減る。何かを聞かれたときに、同じ言葉でなく相手に合わせて答えられる。

 

その塊を、人によっては哲学と呼ぶし美学と呼ぶし信念と呼ぶ(たぶん)。

それは見方や話す相手によっていろいろな言葉に変化する。

言葉を尽くしてしか伝えられないけれど、言葉が大事なわけではない、というのは、私にとってはこういう意味。

 

そしてその粘土のような塊は、まさしく「あぶらねんど」のように変化できる状態にしておきたい。乾いて固まってしまったら、変われないし何も加えられない。あとは風化するだけだから。

ガソリンはいつ入れるのか(わかりやすく深刻な悩み)

わかりやすく、深刻な悩みを2つ3つ抱えている。

これまでのように「なんだかモヤモヤする」「なんだか自分がわからない」みたいなのじゃなくて、悩み相談とかでよくありそうなやつ。

 

でもここ半年くらいで、ひとりでで抱えてもいいことないってわかったし、人への頼り方も少しずつ学んできたし、頼れる人たちにもすごくたくさん知り合えて、幸いにもとてもいい関係を作ってきた。

だから、何とかなりそうだなと思うし、周囲に頼りつつ、寄りかかりつつ、力をもらいつつやっている。結局は自分で歩いていかなくてはならないから、その体力を温存している。

 

そう、本当に生きていかなきゃいけない時に、誰かにずっと寄りかかりながら進むことは難しい。だって、道は人それぞれだからね。

でもどうせひとりで生きていかなくちゃいけないなら、頼る力のあるうちに誰かに頼って、いざというときのために力を保っておくことが必要なんだ。

頼るにも、パワーがいる。パワーが枯渇してからでは、頼れない。頼れるとしても、相当大変になる。運の力もいる。

 

ガソリンが減ってきたときに、ガソリンスタンドに行くはず。全部なくなってからでは、スタンドへはたどり着けない。長距離を走ることがわかっていたら、先に満タンにしておくほうがいい。

つまり、ガソリンスタンドへ行くにも、ガソリンを使う。それが当たり前だ。

 

そういうのを、ここ半年から1年ですごく学んできた。

生きる力。

そこにしか咲かない花を描く

ずいぶん前から、想いや考えをブログに書くようにしていた。

その方が後から読んで面白い。

ブログは自分のために書いている。

読んでくれる人がいるととてもとても嬉しいけれど、目的にはなかなかならない。

 

近頃、世の中に抽象的な言葉があふれて、全体がボヤっとしてしまっていると感じた。

実態があるから、ボヤっとした描き方にも実感があるけれど、実態を持たないままに抽象的な場所へ行ってしまうと、いろいろとしっくりしないままになる。

パンダを知っている人が、パンダの写真にモザイクがかかった様子を見てもパンダが目に浮かぶけれど、パンダを知らない人同士でモザイクのかかったパンダ写真を交換しても何も伝わらない。そんな感じ。

「あなたはさっきからモザイクがかかったパンダのことしか言ってないけれど、本当にパンダを見たことがあるの?」と聞くわけにはいかない。

 

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だから、昨日のことを書いてみる。

昨日は「イカハゲ深夜便」という、Showroomでやるネットラジオを聴いていた。

抽象と具体をぐるぐるしながら、近ごろ抽象へ行ってばかりの私たちを具体に引き戻してくれたのは井川さんだ。カフェマメヒコの井川さん。

「ラジオのFMとAMの違いが分かる?」

「AM的ラジオに必要なのは、エピソード」

「エピソードそれは、PHPである」

PHPってこんな雑誌

www.php.co.jp

読んでみると、エピソードばかり書かれている。

「それは悲しいね」「それはこういう学びがあるね」「それはありがたいね」なんてまとめられることがなく、エピソードの行間に、そこにしか咲かない花が咲いている。

花びらの美しいカーブを、少しめくれた先を、数時間前と違った姿を、そこに映るレースのカーテンの影を、簡単に形容できる言葉はない。それはその花が咲いた状況を、つぶさに描写していくしかないのだ。

こういう感覚を忘れていた、のかもしれない。

 

イカハゲ深夜便」にはお便り作家がいる。

「お便りください」と言われると、作家たちがサクラ的に投稿する。

でもたぶん、リアルな話だ。

それに対して井川さんが、自分のエピソードを話したりする。とてもAMラジオ的。

 

気が付くと朝の4時半で、私はイヤフォンを耳にしたまま、寝てしまっていたことに気が付いた。

 

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エピソードとは、具体的だ。具体的な話は、つまらないと思っていた。

それはどうしても、おばさまたち(私もそういう年齢だけど)の井戸端会議を想像してしまう。

それはかなりの確率で、退屈だ。

おばさまたちを観察していると、お互いの話を聞いていない。

いや、正確にはちょっと聞いている。それは自分のエピソードを思い出すための呼び水に過ぎなくて、自分で話したいことが頭に浮かぶと、もうそのことしか頭にない。

 

10のことを話すうちの1つが、相手の記憶をこつんと叩く。相手は、呼ばれた記憶を話す。(以下繰り返し)

 

どうせ全部理解することなんてできないのだから、それでいいのかもしれない。

それは非常にネットワーク的だ。たくさんの小さなネットワークが、一つの要素で別のネットワークとつながる。

 

だけどつながるだけじゃないものを感じ取りたいと思う。

線だけでなく、面で。

目に見えるものだけでなく、余白で。

めったに伝わらないけれど、伝えるためには、その方法しかないのだと思う

 

具体的に記すには、固有名詞が必要だ。

インターネット上に書くには、許可? 仮名? 抽象化? そんなものが必要になる。

だからもしかしたら、抽象化しないエピソードは誰にも見られない日記に書くしかないのかもしれない。

自分のために書くのだったら、それでもいいか。