Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

わかってもらえない感と孤独感、わがままと欲求

「わかってもらえてない感」と「わかってもらいたい欲」が強いという話をしたら、即座に「孤独感が強い感じ?」って言われた。

私はその2つを直結させていなかったから、即座に自分の中で繋がったその感覚にすごく驚いた。

 

わかってもらえていないと、自分の周りに見えないフィルムができて、世界と断絶しているように感じるのだ。

 

だけど「わかってもらいたい」なんてすごく独りよがりだし、子どもっぽいし、わがまま。そんなものが自分にとって大切だなんて、思わないようにしてきた。

 

わがままを言ってはいけない

わがままを言ってはいけないって、ずっと思っていた。これをしてほしい、あれをしてほしい、をあまり言わなかった、ものすごく手のかからない子どもだったらしい。

 

ただ、自分でそんなに我慢している自覚もなかった。わがままを言わないことが美徳だと、いつからか、子どもながらに思っていたのではないだろうか。

 

わがままを言うと怒られるとかじゃなくて、本当の気持ちを言って受け止めてもらえなかったら傷つく。もしかしたらただそれを、昔も今も恐れているのかもしれない。

 

「わかってもらいたい」なんてもってのほか。自分の気持ちを誰かに向けてがっかりするより、日記にぶつけることを選んだ。

 

球を投げるたびに受け取ってもらえず拾いにいく徒労を考えたら、少なくとも跳ね返してはくれる壁に向かって投げた方がましだ。

 

欲求を知られると恥ずかしい

知られたくないと思っている欲求や欲望のようなもの。それを知られるととても恥ずかしい。

 

例えば、小学校のときの好きな男の子でもいい。本当はずっとその人とばかり話したいけど、それが知られたらとても恥ずかしい。

 

まだ帰って欲しくないとか、本当は会いたいとか、本当は聞いてほしいとか、本当は好きになってほしいとか、そんなことを知られたら恥ずかしいから、何ともないふりをする。

 

恥ずかしいというのは、やはり心が傷ついているのだ。見せたくない裸を見られたら、やはり傷つく。

 

だから、欲求を隠す癖がついてしまったのだろうか。あるいは、欲求を見ないようにしているうちに、重いふたを被せて開かなくしてしまったのだろうか。

 

わかってもらえない孤独

孤独と寂しさは、私の中でかなり近いものだ。

わがままと欲求も、とても似ている。

 

わかってもらえないと、孤独を感じる。

 

私はこんな感じだから、孤独と戦う日々に自分を追い詰めてしまったのだろうか。

 

 

同じ文脈を共有できる人

友だちと話していて「受け止めてもらえない」という言葉を何度も発していたようだ。

「どうせ受け止めてもらえない」

「受け止めてもらえない気がして」

 

それってどういうことなんだろうね、と。その友だちがもっと聞いてくれるという。この行為こそ、私はすごく受け止められていると感じる。そんなことが今までにあっただろうか。

「受け止める」

という誰もがわかる言葉を、「あなたはどういう意味で使っているの」と知ろうとしてくれる人。

 

結局そこではないかという、彼女の仮説だった。

「あなたが繊細な心の内を表すときに、相手は勝手に相手の判断で解釈してしまう。でもそこには文脈があるはずで、そこの理解なしに『あるよね』などと思ってしまう人が周りに多いのではないか」

「あなた自身は、人の気持ちを文脈も通して繊細に感じ取ろうとする人だと思う。職業柄もあって、そういうスキルが高い。だから、相手にもそれをしてほしいと思うんじゃないか。でもそれをできる人ってそもそもとても少ない」

 

なるほど。私は私がしていることを、相手にもしてほしいと思っているのだ。でもそんなことをしてくれる人が都合よくいるわけないと思っていて、半ばあきらめてもいる。

でも、たまに期待をしてしまって、「ああ今回も受け止めてもらえなかった。もう期待しないようにしよう」と思うのだ。

 

私が心の内を話すときは、話せばいいわけじゃない。わかってほしいと思って話す。そこには期待が生じる。期待しないで話すというのは、私にはまだまだ難しい。10本のうち3本ヒット打てればいいでしょ、という考え方も、まだまだ難しい。7本のアウトととなった「わかってもらえなかった」という想いは、少なからず自分を傷つける。

 

彼女は続ける。

「だから、文脈もわかって、あなたが使っている言葉の意味から深く探ろうとしてくれる人を周囲に置けばいいんじゃないか」

それはつまり、自然と仲良くなった人と一緒にいるんじゃなくて、わかってくれそうな人を探して、こちらから声をかけて、あるいは積極的に仲良くなって、関係を構築するということだ。

これは少しずつ、やっていきたいと思う。

 

新たな課題が発生する

ただ、それは難儀だな、と思った。私はこれまでに友だちとは自然に仲良くなるケースが多かったのだ。それは受け身だったのかもしれない。「こういうタイプの友だちを増やす」をどうやってやればいいのかわからない。【新たな課題1】

 

かつ、それに付随して、私は相手より自分の愛が強いととてもとても不安になるといことがわかった。なぜなら、自分の方が愛が強いと相手に知れた時点で、相手の心が少しずつ離れてしまうと思うのだ。何なんだろうこの思い込み。【新たな課題2】

 

自分の中の重大な思い込みや考え方の癖を、見直さなくてはならない気がしている。

心のつながりがある友だちを

本気で自分を変えようと思ったことが何度かある。

割と本気で取り組んだ結果、「○○だったなんて信じられない」と言われることも多い。

 

例えば、このブログでは何度も書いているけれど「笑顔」というものが苦手だった。

面白い時にゲラゲラ笑う以外に、微笑むことができない。

基本、むすくれているか、(面白さに)笑っているかしかない。

でも、ある時期に笑顔の大切さがわかって、それを身に着けようとして、今ではかなりできるようになった。

まあ、笑顔の話は本題ではないのでそれくらいにして。

 

ここからが本題

私がいま本気で取り組もうと思っているのは、心のつながりがある友だちを作ること。

実はもういるのかもしれない。たぶんいるんだよね。

だから、その大切なありがたい人たちをきちんと認識して、お互いの心の内を交換して、ちゃんと頼って、相手にもちゃんと頼ってもらう。

 

私はあまり友だちを作るという感覚がなかった。

なんとなく自然に友だちになるものだと思っていた。

毎日のように連絡していたら嫌がられるだろうし、毎日じゃなくて毎週だってあり得ない。

だからなんとなく、ちょうど相手が喜びそうなタイミングで会うのがいいよね、と。

 

……と、ここまで書いて分かったことがある。

「あなたが私を好き」>「私があなたを好き」という状態じゃないと、

人と付き合うのが怖いのだ。

いつか捨てられるんじゃないかと、怖いのかな。

だからずっと、人付き合いが受け身だったんだろう。

 

友だちなのに、常に相手の愛情の度合いを測ろうとしている。

他の人はどうしているんだろう。こんなの私だけなのかな。