「わかってもらえてない感」と「わかってもらいたい欲」が強いという話をしたら、即座に「孤独感が強い感じ?」って言われた。
私はその2つを直結させていなかったから、即座に自分の中で繋がったその感覚にすごく驚いた。
わかってもらえていないと、自分の周りに見えないフィルムができて、世界と断絶しているように感じるのだ。
だけど「わかってもらいたい」なんてすごく独りよがりだし、子どもっぽいし、わがまま。そんなものが自分にとって大切だなんて、思わないようにしてきた。
わがままを言ってはいけない
わがままを言ってはいけないって、ずっと思っていた。これをしてほしい、あれをしてほしい、をあまり言わなかった、ものすごく手のかからない子どもだったらしい。
ただ、自分でそんなに我慢している自覚もなかった。わがままを言わないことが美徳だと、いつからか、子どもながらに思っていたのではないだろうか。
わがままを言うと怒られるとかじゃなくて、本当の気持ちを言って受け止めてもらえなかったら傷つく。もしかしたらただそれを、昔も今も恐れているのかもしれない。
「わかってもらいたい」なんてもってのほか。自分の気持ちを誰かに向けてがっかりするより、日記にぶつけることを選んだ。
球を投げるたびに受け取ってもらえず拾いにいく徒労を考えたら、少なくとも跳ね返してはくれる壁に向かって投げた方がましだ。
欲求を知られると恥ずかしい
知られたくないと思っている欲求や欲望のようなもの。それを知られるととても恥ずかしい。
例えば、小学校のときの好きな男の子でもいい。本当はずっとその人とばかり話したいけど、それが知られたらとても恥ずかしい。
まだ帰って欲しくないとか、本当は会いたいとか、本当は聞いてほしいとか、本当は好きになってほしいとか、そんなことを知られたら恥ずかしいから、何ともないふりをする。
恥ずかしいというのは、やはり心が傷ついているのだ。見せたくない裸を見られたら、やはり傷つく。
だから、欲求を隠す癖がついてしまったのだろうか。あるいは、欲求を見ないようにしているうちに、重いふたを被せて開かなくしてしまったのだろうか。
わかってもらえない孤独
孤独と寂しさは、私の中でかなり近いものだ。
わがままと欲求も、とても似ている。
わかってもらえないと、孤独を感じる。
私はこんな感じだから、孤独と戦う日々に自分を追い詰めてしまったのだろうか。