Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

なんとなくの死生観を記しておく

自分の死生観は少し変わっているかもしれない。

いや、でも、ありきたりなのかもしれない。

いずれにしても今の考えを記しておこうと思った。

 

まず私は、おそらく生きている限りは「愛するものと一体化したい」「世界と一体化したい」という願望を持ち続けるだろうと思っている。

フロムの『愛するということ』に書かれており、それは私の願望そのものだと思った。

人間は誰しも孤独であるから、孤独でない状態(=誰かと一体化する状態)を求めるのだ。

だが、個体である限り、何かと一体化できるわけはない。

もし愛するものと本当に一体化できたとしたらそれは自分になってしまい、また孤独が襲ってくるだけだ。恐ろしい矛盾。

 

少し前に、あるポッドキャストで「生物の定義」を聞いた。

それは「自分と外の間に境界があること」「自己増殖できること」「代謝によってエネルギーをつくれること」という条件だったかな。

私はその「境界がある」という言葉に惹きつけられた。

境界があるから、孤独なのだ。だから生物はみな等しく孤独から逃れられないのだと。

夫にそのことを話すと「境界がなくなるのは死ぬ時」と言った。

なるほど、細胞の命がなくなれば細胞膜が壊れる。人の場合は朽ちて地球と一体になってゆく。

ということは、私が思い焦がれている「世界との一体化」は死んだあとに達成されるのだ。

これはロマンだと思った。

仏教でいう輪廻とは、こういうことではなかっただろうか(……違うかもw)。

 

そんな話をした後に、母が亡くなった。

68歳で、年齢以上に若々しい人だった。

「人が死ぬのは悲しい」と、私たちは刷り込まれている。だけどそれは本当だろうか? 本当だとしたら、なぜなのだろうか。

 

「もう会えない」

「死にたくなかったんじゃないか」

「もっとしたいことがあっただろう」

「なくなる前には苦しかったかもしれない。痛かったかもしれない」

 

ひとつめは、残された人の悲しみだ。

ふたつめ以降は、本人でなくてはわからない。

 

ほかに

「ああしてあげればよかった」

もあるかも。

でもそれは、残された人の身勝手な悲しみではないだろうか。

相手を思ってというより、自分に対する罪悪感のようなものだ。

 

また会えると思ってさよならをして、一生会わない人はどれくらいいるのだろうか。

意識せずとも、昨日会った人との別れが今生の別れとなるかもしれない。

それは私にとっては相手が亡くなることと同じなのだろうか。

 

星の王子さまでは、「この星のどこかでぼくが笑っていると思えば、すべての星が輝いて見えるよ」というようなことを言っていた。

つまりそれは、命があればこそだと。

ただ、見ている人が「命がある」と思うことと、何が違うのだろうか。

そのあたりは、もう少ししたらわかってくるのかもしれない。

私はまだ、母がリアルに心の中にいる。

母の写真の横に飾ったかすみ草を、一緒に「かわいいね」と思ってくれているような気がする。

 

母が亡くなって、地球と一体化するのだなと想像した。

とても崇高に思えたし、美しいことだと思った。

葬儀のためにドライアイスを使って、地球に還るのを遅くする。

なんだかおかしなことだと思った。

 

お別れをしないで亡くなるのがよくないんじゃないか。

亡くなる前にちゃんとお別れをしたい。

死期がわかればそれができるけど、通常はできないだろう。

だから毎回が最後であるかのように、大切に過ごすのがいいのだろうか。

 

 

話は変わるが、

私は、人生を大いなる暇つぶしだと思っている。

退屈という意味ではない。

適当に過ごすという意味でもない。

人生は「時間」だということ。

自分の意思でなく(少なくとも覚えてはいない)大きな暇を与えられて、なんとかそれをつぶしている。

長すぎる暇を、できるだけ充実させたい。

楽しい方がいいし、退屈でない方がいいし、辛くない方がいい。

辛い暇つぶしなんて最悪だ。退屈はもっと最悪だ。

 

母は間違いなく、とても充実した時間を過ごしたと思う。

母が突然亡くなった

なんの前触れもなく母が亡くなった。

 

よくわからなくて、全然悲しくならなかった。

死ぬことって悲しいことなのだろうか?

 

数日して、母が孫たちをとても大事にしてくれていたことをようやく思い出して、母の愛が注がれていた自分の子を思うと泣いてしまう。

 

「宝物を産んでくれてありがとう」という手紙を、2ヶ月前の長男の誕生日会でもらっていた。

 

長男が産まれる前後はずっとそばにいてくれた。

産まれてからも、毎週東京まで通って赤ちゃんのお世話をしてくれた。

読み聞かせがいいよ、というのも母から気づかせてもらったし、ラジオが好きなのも母の影響だった。

 

子どもたちを写真に撮る。

それをもう母には送れない。

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不登校の子どもたちに、一度も「学校へ行った方がいい」と言わなかった。

プレッシャーをかけるのではなく、いつもお出かけやものづくりに誘ってくれた。

私の周りには、他にそんな人はいない。

怒りと悲しみの処方箋

怒りや悲しみについて、いろいろと本を読んだ。

内省についても、本を読んだり話したりして、ずいぶん考えを深めてきたつもりだし、人間の難しさについて以前よりは理解が進んだ。

 

怒りは何かの二次感情だという。

 

中土井僚さんという方(『U理論』の翻訳者)が以前お話されていたことでとても印象的な内容があった。

 

ジョン・ゴッドマンによる「関係の4毒素」というのがあるらしく

・相手への非難

・相手への侮辱や見下し

・自己弁護や自己防衛

・逃避

トラブルがあるときにこういう行動を取ると、相手とうまく関係性が築けないという。

 

上記のような気持ちが生まれたときに、それを内省して深掘りして、自分の「痛みと願い」を知る。

それが表れてから、相手に伝えるといい、というのだ。

 

私には、「寂しさ」「悲しみ」が常に痛みとしてあると思っている。

「何かを伝え合ってわかりあいたい」みたいなものが、おそらく願いとしてある。

 

非難もしない、侮辱も自己弁護も逃避もしないで伝えるとなると、

「私はあなたとこんなことがしたい。それができなくてとても寂しい」

と伝えることになる。相手を責めずにこれを言う。

(つまり「あなたがそうしてくれない!」みたいなことを言わない)

これは、言うほど簡単ではない。

とても強い感情(痛み)があるわけだから、これを伝えるときは痛み(傷)をえぐっているようなものなのだ。

 

一度できたとしても簡単にはならず、そのたびにとても苦しい。

簡単であるくらいなら、そもそも痛まないからだ。

 

ただ、痛みと願いがわかって、それを相手になんとか伝えて伝わり、相手もわかってくれたとしても、改善できないことがある。

 

ずっと痛みを持ち続けることになる。

 

悲しみや寂しさを背負った子どもを見ると、それにより乱暴になったり、引きこもりになったり、ゲーム依存になったり、非行に走ったり、する。

そうするしか、自分を守るすべがないからだ。

 

でも私は大人なので、そんなことはしたくない。

どうすればいいのか、まだよくわからないでいる。

 

痛みを浄化できないと、最初の、二次感情であるはずの「怒り」も浄化できない。

痛みまで突き詰めたのに、「怒り」が心の中に残っていることに驚く。

何か、無理をしているのかもしれない。