Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

気づいてから理屈を語れても、理屈から気づくことはできない

この本のプロローグがすごく好きなのです。

第1感「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい

内容はこんな感じ。

 

ある歴史的な「像」が発掘された。過去にも同じような像が何体か発見されたことがあったが損傷が激しく、今回はほぼ完全体。本物であれば相当な価値がある。

美術館の鑑定チームは14カ月かけて細かく調べ上げ「本物」という判断を下した。

ところが、さまざまな美術の専門家の多くが、ひと目見て「何かがおかしい」と感じたという。その感想はさまざまで「爪がおかしい」「新しい」「ガラス越しに見ているようだ」など、いずれも過去に何体も発掘されたことのあるものを再度見たときの感想としてはおかしなもの。

今も美術館のカタログにはその像が載っていて「紀元前530年前、あるいは現代の模倣品」と書かれているらしい。

あとから調べたところ、現代の技術でその像のような模倣品を作ることは可能なのだという。

  

この「最初の2秒」を文章に対して考えたい。

文章のおかしさをどうやって気づくか

ある程度の技術があれば、いまいちな文章はすぐにわかる。

プロでも好みがいろいろあって「たり」を2回使う人もいるし、1回しか使わない人もいる。そういうわかりやすいところではない。

エッセイみたいなものでは難しいかもしれない。好みもあるからね。

ただ、商業的な文章を読んでいると、イマイチな文章は途中でひっかかる。それこそ2秒くらいで引っかかる。

引っかかった文章を読み返してみると、理由がわかる。「を」がダブっている。主語と述語がねじれている。「こと」が多すぎる。語尾がダブっている。リズムがおかしい。前の文章と繋がっていない。話が何度も前後する。などなど。

ただ、気づいたその瞬間には理由はわかっていないのだ。

何かがおかしい。がわかるだけ。

気がついても説明できない

おそらくだけど、気づいたけど説明できない、という人は多いと思う。本をたくさん読んでいる人なら「この文章は読みにくい」と気づくかもしれない。

また、読みにくいのか、面白くないのかよくわからないままに、読み進めるのが辛くなってしまうこともあるだろう。

私が思うに、多くの人はこういう状態だと思うのだ。

だから「読み手はちゃんとわかる」んだと思う。私はそう思っている。

 

「読者はバカだと思え」みたいな言い方をする人がいる。それは誤りだ。言語化できなくても、読者はわかっている。少なくとも私はそう思う。

たぶん、おかしな文章を2秒読んで、おかしいな? と感じる。

無意識下で「おかしいな? だけど読みたいからもう少し読んでみよう。あれ、またおかしいな? ・・・もう限界」ってなって、読むのをやめるんじゃないだろうか。

(ただし、自分が書いた文章について「おかしいな?」と気づけるスキルはまた別)

プロなら説明できる

たぶん、プロなら理屈で語れる。なぜこの文章がおかしいのか。

だって、おかしな文章をいやってほど直してきたから。自分の文章だって、おかしいことは多い。というか、ちょっと書けばだいたいおかしな文章がある。だから推敲するわけだ。

冷静になって読み返すと、おかしいところがわかる。

理屈で考えて、おかしな部分を直す。

直した文章がおかしくないか、もう一度チェックする(別の箇所がおかしくなることも多い)。

以下繰り返し。

理屈から気づくことができるか

理屈を全部覚えたら、気づけるようになるのか? それはたぶん、できない。最初に紹介した美術館の鑑定スタッフと同じだ。

どうやって私たちは文章を理解しているのかよくわからないけれど、「気づく」→「理屈」の順番は崩せない。逆のパターンはないと思う。

ただ、理屈を学んでおくことは助けになると思う。それはやっぱり、気づいたときに理屈を説明できる方が強いから。

 

どうすれば気づけるようになるのか。経験を積むしかないのだろうか。

果たして何の経験を積めばいいのだろうか。

誰か知っている人いますか?

「好き」「やりたい」を見つける方法

私なりの、経験上の、「好き」とか「やりたい」を見つける方法を書いてみようと思う。

結論を先に言うと

「ちょっと好き」なことをどんどんやる

ってこと。それだけ。

でも、行動しなくてはいけないので言うほど簡単じゃないと思う。

「好き」や「やりたい」が見つからない人って、下記のような特徴があると思う(何を隠そう私がそうだった)。だから、ひとつずつ書いていく。

 

ちょっと好きなことはあるけど「大したことない」と思っている

読書は好きだけど、「読書家」ってほどじゃない。

テレビドラマは好きだけど「マニア」ってほどじゃない。

絵を描くのは好きだけど、全然上手じゃない。

とか。

すごく詳しい人とか、すごく上手な人を見ているから、自分を大したことないと思ってしまう。大したことなければやる意味ないと思ってしまう。だからやらない。

 

そうじゃなくて「楽しい」「好き」ってことが大事なのだから、そう思うことをやればいい。下手でも絵を描けばいい。誰かと比べなくていい。

描くことで、驚くほどの発見がある。やった人にしかわからない。絵を描く以外のことにも通じる発見がある。

発見があると、別の景色が見える。

別の景色が見えると、別のことがしたくなる。

それを続けていくと、私は人の顔を描くのが好きなんだとか、気持ちを表すのが好きなんだとか、ポーズを描くのが好きなんだとかわかる。

色鉛筆が好きだとか、ボールペンが好きだとか、水彩が好きだとかわかる。

で、もし見つからなかったら、それでもいい。何となく、ちょっと描くのが好きなだけでいい。

途中でやめてもいい。少ししてまた気になったら、またやればいい。

 

それで食おうと思うと大変なんだけど、ちょっとしたことができると重宝される。

例えば毎日YouTubeをめちゃくちゃ観てる、ってだけでも、そういう人はそれほどいないのでマーケティング的に重宝されると思う。

みんな生活が多様になってきたから、みんな希少性が高いのだ。

だから、ちょっとでも実は「大したことある」のだ。

 

「好き」という感情を見逃してしまう

実際、私たちは好きな感情を誰でも持っていると思う。

だけど、大切にしていないと、見逃してしまう。

 

「ご飯何でもいいよ」とか。

「仕事だから文句言わずにやる」とか。

「やるのが苦痛だけど深く考えない」とか。

 

「好き」という感情が日常的に現れてこないので、ときどき軽い「好き」が現れても見分けが付かない。

好きなことを小さくてもいいのでたくさんやっていると、生活に「好き」がたくさん現れる。

そうするとその中で「すごく好き」「ちょっと好き」の見分けが付くようになる。

「あーこれは、まじずっと好きになれるやつ」と瞬時にわかったりする。もちろん「好きじゃない」もすぐにわかる。

 

好きなことをしていない自分に慣れすぎている

「好きなことをしている」自分が、当たり前ではない状態だと、それが普通になってしまう。全く違和感がなく生活できてしまう。

さらには、好きなことばかりやっていると罪悪感すら覚えるようになる。

まず、そこから脱却したい。

 

小さな「好きなこと」をたくさんすると、「好きなことをしている自分」に慣れていく。「好きなことをしている自分」が当たり前になっていく。

そうすると、「ものすごく好きなことをしている自分」にどんどん近づいていく。

それはダイエットで「細いカラダになっている私」をイメージして、「痩せている自分が当たり前」になるのと同じような感じかも。

 

結論:「ちょっと好き」なことをどんどんやるとどうなるか

私、今「好きなこと」や「やりたいこと」であふれているように見えるみたいなのだけど、昔は全然書きたいものがなかった。

書くことが好きなんじゃないか、と思ったのは、日記だけはずっと続けてきたから。でもそれも毎日書き続けてきたわけじゃないし、何年も休んでいることもザラだし、それほど価値のあることとも思えなかった。

ただ、飽きっぽい私が唯一続けてきた(と言っても何度も言うように何年も休んだりするんだけど)のが読書と日記だった。

 

ただ、ライターになっても書きたいものが見つからず。

どうしていいかわからなかったのだけど、ある本を読んで影響を受け、好きなことを手当たり次第いろいろやることにした。

ピアノを習ったり(妊娠したので辞めた)、ポッドキャストを始めたり、短編小説を書いたり、下手なイラストを書いてみたり、ジャズダンスを習おうと検討したり(習わなかった)、こども哲学に足を踏み入れてみたり、作曲をしようとしてみたり(スタート前に挫折した)。

できるものだけやる。続かないものは辞める。辞めたことに罪悪感を持たない。

それだけで好きなことをちょっとずつやることになる。そうすると、「好き好き!」っていうことに触れたときにセンサーが反応するようになってきた。

仕事でも「ああ楽しい」とか「何それ楽しそう」っていうときに、わかるようになってきた。

そうすると、「好き」「楽しい」と思う方向に進めばいいので、割とラクになってくる。

「好きなことをしている自分があたりまえ」になると、無理なく生きられるというか。

好きじゃないことをやらなきゃいけない場合ももちろんある。でも自分をちゃんと納得させられるし、好きじゃないことが増えすぎたら対策をするように考える。

私の中では、それぞれの仕事がちゃんと色分けされて見えている。

 

ひとつに絞れなくてもいいと思う。リソースが分散されてしまうので焦る気持ちもあるけれど、私という人間はひとりなのだから、何となく芯は近いものがあるし、近くなくても組み合わせて何かしらできるような気もする。

今はいろんな好きなもの、取り組んでいるモノの共通点を見つけたり、横から後ろからの視点で眺めたりして、絞らない方がいいのだろうと思っている。

AはBになれるけど、BはAになれない

TakramのPodcastを聞いていて「理系と文系にどちらに進むか迷ったとき、『理系の学者が文系の学者になることはあるけど、逆はない』と思って理系へ進んだ」と言っている人がいた。

確かに。なぜなのか。文系の学者が理系に比べて簡単だというわけではないだろうけど、おそらく性質が違うのだ。

似てるのかな? と思ったのが、「クリエイターはディレクターになれるけど、逆はない」ってこと。クリエイターっていうのはものづくりをしていて、さらにプロフェッショナルな人ってことね。デザイナーとか、プログラマーとか、かな。

共通点があるのかないのか。

 

「AはBになれるけど、BはAになれない」

と言うときのAに共通するのは、Aになるまでに圧倒的な時間の量(つまり修行期間)が必要だってことなんじゃないか。

プロフェッショナルなデザイナーは美術学校を出ていたりするし、プログラマーはやっぱり「使えない下積み時代」を経ていたりする。何を隠そう私もライターとして「書けるようになったな」と思うまで実は5年以上かかっている(それまでお仕事でギャラをもらっていてスミマセン、って感じ)。

理系の学者は、文系の学者に比べて「知らなきゃいけない」ことが圧倒的に多くて、それには大量な時間が必要なんじゃないか。

かたや、Bって感覚的なものが大きいような気がする。センスや感覚があれば、割とすぐにできちゃう人がいる。あるいはそれがなくても何となくできた風に見せることができる。絶対にこのスキルがこれくらいできなきゃダメ、みたいな指針が少なそう。感覚とかセンスが大きいから、そもそも絶対になれない人もいる。「マネージャー業が全然できない元技術者」とかが、たぶんそうだ。修行期間の有無ではないのだ。

 

だから、Bだけで過ごしてきた人は、Aの価値があまりわからないし、Aのひとは「ひょい」といろいろやってのけてしまうBの人を疎ましく思う。

 

そんな仮説を立ててみたんですが、どうかな?