Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

究極的には「一体化」したい

どこから書いたらいいのでしょうか。

ぽつりぽつりと書いていきます。

リンクをたくさん貼るけれど、開かなくてもわかるように引用していきます。

 

以下、目次。

孤独感や寂しさと「つながり」の関係

私は孤独感とか「寂しい」が強くて、あまりそれを自分で解決できなくて、過去にいくつかの本を読んだ。その時に書いたブログがこちら(でも、開かなくていいです)。

「心を開く」とはどういうことか - Low Kick - 2nd -

もう一度本から引用する。

「つながり」が感じられないとき、私たちは「寂しさ」を感じるのです。

それはもちろん「外面的なつながり」ではなく、「内面的なつながり」です。

「内面的なつながり」とは、ありのままの自分をさらけ出しても安心して受け入れてもらえる関係のことを言います。

 それから、私の中で「つながり」がとてもとても大切なキーワードになった。いろいろなことは、「他者とつながりたい」という気持ちが密接に関係している。これは根源的なものなのか、何かをこじらせているのか、知りたい。

「わかりあいたい」とわかった

私は心の奥底で「わかりあいたい」のだとわかった瞬間があった。それがこちらのブログ(これも開かなくてもいい)。

わかりあえる人を求めている、のか? - Low Kick - 2nd -

「わかりあいたい」という欲求を心の奥底から発見したときに、私はこんな風だったらしい。

これが(最近たまにある)私の中のアンモナイト(あるいは宝石みたいなもの)を見つけた瞬間で、

見つけた瞬間あまりにも眩しくて苦しくて柔らかくて、

ぼろぼろと涙がこぼれた。

それを興奮しながら話したのが、こちらのポッドキャスト(聞かなくてもいいように引用します)。

#095 「わかりあう」とは? - EMITOCHIO.NET

いろいろ話しているけれど、発見した時にはこんな感じだった。

 「とっちーはわかりあう人を求めてるのかもね」と言われて、そこで「ズキューン」って来たんだよね。(略)その時夕飯かなんか作っている時だったんだけど、キッチンでボロボロ泣いたんだよね。「わかりあう人、めっちゃ求めてる!」と思って。

こう言われたときに、「裸にされたようで、とても恥ずかしかった」と言っている。【※伏線1】

 

ポッドキャストでも話しているけれど、それから、1週間ほどだろうか。私は「わかりあいたい」という気持ちが私の好きな行動の中心あたりにピタッとはまっていることに気が付いて、そのたびにはらはらと心で泣いた。次がそのブログ(読まなくていいw)。

「わかりあう」というマスターキーワード - Low Kick - 2nd -

そのときに、こんな気持ちだった。

好きなものに全部、「わかりあう」を当てはめてみた。

それはもう、恐ろしいくらいに全部はまった。

ひとつひとつ、鍵を開けるたびに、私はこのために生きてきたのかもしれない、って、涙がこぼれそうになる。

このブログの中で「つくること」に関しては、上手く説明がつかなくて迷った形跡がある(最後の方で取り消し線を引いており、その少し前に追記がある)。【※伏線2】

「つながり」と「わかりあう」の関係

人と人とはパーフェクトにわかりあうことはできない。別個の人間なのだから。でも、わかりあいたい欲求は止められない。それが私の理解。(単純に「わかりあいたい」とか言っていると「わかりあえると思ってるの?頭弱い?」みたいな態度を取ってくる人が過去にいたので、こうして前提を書いておく)。

「つながる」と「わかりあう」は、私の中で有機的につながっている。重なり合ってもいるし、協力し合ってもいる。それは、あるひとつの目的のためだ。

究極的には「一体化したい」

いつだったかな、『愛するということ』という本を読んだ。名作なの知らなかったし、結構いろんな人が読んでいるのね。私はここに出てくる「一体化」という言葉に、とてもとても惹かれた。

どの時代のどの社会においても、人間は同じ一つの問題の解決に迫られている。いかに孤立を克服するか、いかに合一を達成するか、いかに個人的な生活を超越して他者との一体化を得るか、という問題である。 

完全な答えは、人間どうしの一体化、他者との融合、すなわち愛にある。

自分以外の人間と融合したいというこの欲望は、人間のもっとも強い欲望である。それはもっとも根源的な熱情であり、この欲望こそが、人類を、部族、家族、社会を結束させる力である。

私の中で、 「つながりたい」「わかりあいたい」「一体化したい」がすべて美しくつながった。私とは、人間とは、一体化できない悲しみを背負いながら、一体化したいと熱望する生命体なのだ。

「つくること」は一体化する方法のひとつ

また、そこに、「なぜ私は『つくること』に惹かれるのか」を説明できなかった【※伏線2】の答えが書かれていた。

 

一体感を得る第三の方法は、創造的活動である。それには芸術的なものもあれば、職人的なものもある。どんな種類の創造的活動の場合も、創造する人間は素材と一体化する。

これはとてもよくわかる。素材ともそうだし、世界と一体化する感覚がある。例えば、DIYのような物理的なものを作るには、物理現象に沿わなくてはならない。主に重力や質量だが、それらと一体化して初めて、しっかりと物が作れるから。これはとても納得感がある。

「恥ずかしい」によって行動が制限される

ここへきて「恥ずかしい」という感情が、一体化したい欲求と密接にかかわっていることがわかってきた。

「恥」について書く前に、私が「恥ずかしい」にずっとずっと捕らわれていたことを書きたい。

「恥ずかしい」と戦う - Low Kick - 2nd -

これは特に引用しないけれど、どれだけ、「恥ずかしい」によって行動を制限されていることか、を書いた。

また、『敏感すぎるあなたが7日間で自己肯定感をあげる方法』という本を読んだ時にこんなブログを書いた。

「自己肯定感」についてまだ考え足りていない - Low Kick - 2nd -

また本から引用します。

行動の基準が「恥ずかしくないかどうか」ですから、自分に軸がない状態です。

「恥ずかしい」が強いと、「恥ずかしくないかどうか」で行動を決めるので、結局自分で何も決められないということになる。ふらふらふらふらしてしまう。

「欲求」や「感情」を表に出すのが恥ずかしい

私は欲求や感情をあまり外に出せなくて、それは「恥ずかしい」せいだと思っていた。

わかってもらえない感と孤独感、わがままと欲求 - Low Kick - 2nd -

自分の文章を引用しますね。

まだ帰って欲しくないとか、本当は会いたいとか、本当は聞いてほしいとか、本当は好きになってほしいとか、そんなことを知られたら恥ずかしいから、何ともないふりをする。

恥ずかしいというのは、やはり心が傷ついているのだ。見せたくない裸を見られたら、やはり傷つく。

「恥ずかしい」とは、何なのだろう。

「欲求や感情は表に出すだけ無駄である」

愛着障害の克服』という本があって、これは幼少の頃に親とうまく愛着を形成できなかった人の話。私は両親ともに普通だし、ちゃんと愛されていたと思っているし、大きな不満も不幸もなかった(と、思い込んでいた)。そういうこととは無縁だと、ずっと思っていた。

でも、人に心を開けないといった自分の不器用さを垣間見ることがあって、この本を勧められ、読んだ。「回避型」あるいは「怖れ・回避型」があてはまるように思えて、どうしてこんなにも私をわかってくれるのだろうかと、読みながらボロボロ泣いた。

その話は別でするとして、ここで「欲求や感情を出せない」ということが書かれていた。

回避型の人は、感情的なことに惑わされるのをことに嫌がる。求めてもかまってもらえず放っておかれたり、泣いても誰も助けてくれなかったりすることをくり返す中で、欲求や感情は表に出すだけ無駄であるし、余計に傷ついてしまうということを学んでいる。

私は全く同じことを、つい最近(数年前?)まで感じていた。出すだけ無駄、余計に傷つく、のだと。

ここには「恥」という言葉が出てこないけれども、これは私が感じている恥の感情にとても近い。

愛着し、その人に思い焦がれても、傷つき、ダメージを受けるだけである。それならば、最初から何も求めず、何も感じず、誰も愛さないのがいちばん傷つかないですむ。

恥が強いのは、傷つくのを恐れているからなのではないか。その人に思い焦がれるというのは、究極的には一体化したいという欲求だ。

ただ、それと恥がどう関係あるのだろうか。

一体化できないから恥が生まれる

そこでもう一度『愛するということ』に戻る。実は、初めて読んだ時には気が付かなかった(あるいは、読み進める方を優先してしまった)「恥」について、書かれている。

孤立は恥と罪悪感を生む。そうした孤立からくる恥と罪悪感については、聖書のアダムとイヴの物語に書かれている。アダムとイヴは「善悪の区別を知る知恵の木の実」を食べ、神への服従を拒み(不服従の自由がなければ善も悪もない)、自然との原始的な動物的調和から抜け出して人間となった。すなわち人間として誕生した。そしてその後で、二人は「自分たちが裸であることを知り、恥じた」。

人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる。

ここで【※伏線1】を見つめ直すのだけど、私は裸にされたようで恥ずかしかった。それは、一体化したい気持ちと、他者とは別の人間であるという事実と、大いに関係があるのだ。

私だけが裸にされたという、あなたと違ってしまったという苦しさ。でもそれを受け入れてもらえて恥を乗り越えれば、つながり、わかりあうことができる。つまり一体化したいという欲求が少し満たされる。

孤立しているから感じる「恥」こそが一体化することを阻害していて、「恥」を乗り越えれば相手とつながり、近づくことができる。

心がオープンな人は、恥ずかしがってなどいない。最初から、世界とつながり、一体化しているのだろうか。もしかしたら、そうなのかもしれない。

 

今日はここまで。

 

上記のことを短めに話したのがこちらのラジオトーク

radiotalk.jp

 ポッドキャストでも聴けます。

「今日の140文字」Re:cycle:Apple Podcast内の107【番外編】「わかりあいたい」「孤独」「一体化」「恥」「つながり」について from Radiotalk

ただただ自分の話を聞いてほしい

これはとても大切な自己矛盾の話。

 

実は私は、人の話を奪って自分の話をする人が昔から好きではない。これは程度問題で、誰だって人の話から自分のことを想起して話をするものだ。だから、私にもそういうところはあるし、だれしもそういうところはある。

なぜだろうと考えると、人の気持ちを考えないからとか、自分勝手だとか、いろいろなことが考えられるけど、結局は私が傷ついたことがあるからなんだと思う。

大切なことを話したいと思って話し始めたのに、話し終わる前に自分の話をされてしまう。 しかも、私きっかけでただ「思い出しただけ」の、まったく関係のない、面白くもない話。とてもとても、ないがしろにされた気がする。

私はきっと、自分の話を聞いてほしかったのだ。

私は、相手が私の話を聞きたいと思っているのか、結構気にするタイプのようだ。聴きたいと思っていない人にひたすら話し続けるような、恥ずかしい思いはしたくない。

だから、だいたい相手とのバランスを見て、自分の話す量が多くならないように気を付ける。相手がそれほど聞きたくないとしても、バランスが取れていれば恥ずかしくないからだ(その考え方が恥ずかしいけれど)。

自分ばかり話す人が好きじゃないのに、私がそういう人になるわけにはいかない。話し続ける人が好きじゃないから、話し続ける人にはなれないのだ。本当は、たくさん話して、たくさんわかってほしいのにもかかわらず。

そんな私がどうにもならなくて始めたのが、文章を書くことだったのかもしれない。文章を書く理由はきっとたくさんあるのだけど、その中のひとつなんだと思う。

誰も聞いてくれないからとかじゃなくて、たくさん話す自分になりたくないから、誰も読まない日記や、読みたい人が勝手に読んでくれるブログに書いているんじゃないだろうか。

 

離れて行ってしまう気がして怖い

わがままを言うと見捨てられる

私1「わがままを言うと、見捨てられるような気がするんだよね」

私2「そういう体験があるの?」

私1「あまり覚えていない。子どもの頃からわがままを言わなかったらしい。その頃から『見捨てられる』と思っていたのかな」

私2「なんでわがまま言わなかったんだろうね」

私1「母親が怖かったのはある。『○○するとゲンコツ』ってよく言われていたし、実際されていた。あと、『○○が欲しい』と言わない子供だったみたいなんだよね」

私2「怖いからなのかな」

私1「でも、『欲しい』なんて、怒られるわけじゃないじゃん。きっと、諦めていたんだと思うんだよね。言っても無駄だ、って」

私2「どうして無駄だと思ったんだろう?」

私1「これはあくまで予想だけど、なにか『欲しい』とか『したい』とか、そういうことを言って叶ったことがないのかもね」

私2「それと『見捨てられる』は直接的につながる感じがあまりしないね」

私1「確かにね。何なんだろう」

自分の方が愛が強いと離れられる

私1「わがままだけじゃなくて、『私の愛が相手より強いと、相手が離れて行ってしまう』という恐怖が結構強いみたいなんだよね」

私2「そういう体験があったの?」

私1「たぶん、ないと思う」

私2「じゃあ、どうしてそう思うんだろうね?」

私1「考えたんだけど、相手が私に感じている興味関心をすごく敏感に感じてしまうか、感じ取ろうとするんだと思う。私が愛情を強く出してしまうと、少し相手に余裕が出て、私に向かっていたベクトルが弱くなるんだよね」

私2「まあ、そういうことはあるだろうね」

私1「そういう小さな出来事が積み重なって、いずれは私から離れてしまうんじゃないかと思うのかな」

私2「そういう恐怖があると、どういう行動に出るの?」

私1「自分の方が愛情が強いってことを、悟られないようにする。相手が離れて行かないように」

私2「臆病なんだね」

私1「そうだね」

小さな積み重ねが怖い

私1「大きなできごとじゃなくて、そういう小さな積み重ねが、恐怖心を生み出している気がする。わがままを言って相手が少し冷たくなったり、愛情を示し過ぎて相手が引いてしまったり。そんなことを繰り返していると、相手の中に積み重なって私から離れてしまうんじゃないかと」

私2「相手を嫌な気持ちにしたくない、とかじゃないんだね」

私1「そうだね、あくまでも自分のためだと思う。相手を嫌な気持ちにすることで私から離れてしまうってことが怖いんだろうね」

私2「そんなのをいつも気にしてたら、大変じゃない?」

私1「うーん、無意識に気にしちゃってる。大変なのかもしれない。だから人に対して受け身なのかもしれない。自分から誘えるようになったのはここ最近」

私2「わがままをいったり、強い愛を示して、その時にふっと相手の反応が弱くなっても、離れていくわけじゃないっていう経験をした方がいいのかもね」

私1「なるほどね。怖いけど、やってみないといけないね。離れていってしまうことを勝手に想像していたから……。そうじゃないって体でわかれば、怖くなくなるかもしれない」