Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

「あなたはもともと短気だろうに、どうしてそんなに怒らないの?」と言われたことがある

大学の時、唯一の女友だちであるR子に言われたことがある。

 

「エミって、もともと短気なはずだよね? それなのにどうしてそんなに怒らないの?」

 

「怒らないの?」だったか「寛大なの?」だったか「許せるの?」だったか忘れてしまったけれど、そんなようなこと。

「短気なはず」と言うのも面白い。なぜそう思ったのかも聞けばよかった。人の悪口大好きだったし、感情の起伏が激しいし、ということかもしれない。

 

とにかく、その問いが面白くて私なりに自分を振り返ってみた。

確かに、子どものころは結構怒りっぽかったかもしれない。

雨が降っているときに友だちと口げんかして、帰りがけに自分の傘を相手の傘にぶつけてうっぷんを晴らした覚えもある(強く覚えているということは、暴力に出ることが珍しかったのかもしれないけど)。

 

人に対して怒らないようにしているとしたら、そのおおもとは何だろう?

いろいろ考えてみたけれど、バレーボールの影響かもしれない、と思った。

小学校のころは、チームの中でも上手なほうで、キャプテンでセッターだった。サーブレシーブが苦手なチームで、セッターに返ってこないことも多い。試合に負けるとわかり、諦めると、私はやる気をなくした。

いつもより適当に声を出し、適当にトスを上げ、むすくれて怒りを表しに、試合終了を待った。

試合が終わると、その態度をコーチに怒られるのではないかと思ったが、一度も怒られたことはなかった。なぜかはよくわからない。

 

いつからか、負け試合でも最後までやり抜くようになっていた。

バレーボールは、ムードでどんどん流れが変わってしまう。他のスポーツよりも顕著ではないかと、個人的には思っている。

だから、チームメイトのミスを、当人が気にしないように励ます必要がある。自分がミスしたら、チームメイトの気持ちをなだめつつ、自分も忘れるようにしなくてはならない。

 

セッターは、サーブレシーブが返ってこないと何もできない。サーブの強い相手だと、何本も連続でサービスエース、なんてこともある。私には文字通り、手も足も出せないのだ。かつ、私はチームの中で技術的に上手な方であることが多かった。

 

それでも、イライラしてはいけない。ミスがあるたびに許し、忘れる。人のミスだけでなく、自分のミスもそうだ。(バレーはミスのスポーツだ、と最近誰かに言われた)

 

そこでは「許すか、許さないか、判断を入れない」ということになる。自分のため(つまりチームとして最大限の力を出すため)には、「許す」一択しかない。それは、「思考停止」と言えるのかもしれないけれど。

 

そんな努力を繰り返してきたから、冒頭の質問をもらったのかもしれない。

ネガティブな4つの行動「非難/侮辱/自己弁護/逃避」をしない

夫婦のコミュニケーションにおいて、ジョン・ゴットマンの教えを守るように気を付けている。

 

以前、コルクラボにゲストに来てくださった中土井僚さんが教えてくれたもので、ネガティブな4つの行動「非難/侮辱/自己弁護/逃避」をしないようにする、というもの。

 

ここにも書いた。

emitochio.hatenablog.com

 

何か嫌なことがあったときに、その4つを避けるのは結構難しい。

 

例えば、「夫が忙しくて家庭の時間をとってくれない」というとき。

 

まずは怒る人が多いんじゃないか。「家のこともしないで」「私に全部任せている」「好きなだけ仕事できるからいいよね」みたいな。

 

他には、「男はいいよね、家のことしなくていいから」「(子どもに)もう放っておこう」とか、さげすむような言い方。

 

そのあと「私はこんなにやっているんだから、イライラしてあたってしまうのは仕方ない」と、自分を正当化する。

 

あとは、「もう話したくない!」と逃げる。

 

こんな繰り返し。でも、ネガティブな4つの行動をしないで、内省をしていくと、自分の「痛み」と「願い」に気が付くのだという。

 

私の場合は、「寂しい」「話したい」ということだった。

 

「そんなこと?」と思う。でも、だからこそ、それに気づくのは結構大変なことだ。

 

だって、とてもとてもしょうもないことに思える。自分でもそう思う。だからこそ、しょうもない自分の弱みを認めなくてはいけないし、しょうもないから恥ずかしくて言うたびに悲しくなるし、相手に伝えるのは傷口をえぐるようでとてもとても苦しい。

 

例えば、「夫が家事をしてくれない」という不満は「私をもっとかまってほしい」「もっと愛してほしい」「もっと一緒にいたい」などなどの願いがありつつ、それを怒りに変換しているケースが多いのでは? と思っている。

 

私の場合は、相手の話を聞きたいと思っていたけど、「話を聞いてほしい」だったのかもしれない。

 

昨日「ほかに話したいことないの~?」と聞いてくれて、何かが伝わったのかもしれないと思ったのだった。

毎日何かしら楽しいことをして、それを「あれがね」「これがね」と話していたい

最近、私は不定期にメンタルがよろしくなくて、運動したり、睡眠をよくとったり、食事に気を付けたりしているが、それでもよくない時期がやってくる。

 

ところが、先日気づいたことがある。

 

どん底だという時にも、夫に「この間こんなことがあった」と淡々と話していると、どんどんメンタルが回復していくのだ。

 

一方で、「悩み」を話し続けていると、相手を責めたり、自分を責めたり、相手を責める自分を否定したり、感情を探し出そうとしたり、メタ認知しようとしてみたりと、忙しくて回復どころではない。

 

もしかすると、つらい時には、聞いてくれる人に淡々と「こんなことがあった」と話していくとそれだけで幸せなのかもしれない。

 

今日、「永遠に続いてもいいと思うことが幸せという状態だ」という「幸せの定義」を聞いた。

 

私なら、バレーボールとか、仕事とか、子どもの相手とか、毎日いろんな活動をして、一日の終わりに「こんなことがあったんだよ」と話せる日常。

 

それが一番の幸せなのかもしれない。