結婚したのだけど、結婚したことにより寂しいということはある。
にぎやかな場所に行って、より寂しさを感じるというのに似ているだろうか。
私は孤独が人生最大の敵だと思ってきた。孤独を避けるためだけに生活していると言っても言い過ぎではないかもしれない。
結婚は孤独であるわけではないけれど寂しい。何が違うのだろうか。
そろそろ七夕らしいので、願いごとに何を書こうか考える。
「寂しくない人生を生きられますように」
と書きたいと思った。
「白くまのことを考えるな」という話がある。
「白くまのことを考えるな」と言われたととたん、人は白くまのことを考えてしまう。「○○を考えるな」ということはムリなのだという話。
私の願いは白くまの話と同じなのではないか。
つまり、白くまのことを考えたくなければ白くまとは全く関係のないことを考えなくてはならない。「なぜ日本でイノベーションが生まれないのか」くらいには逆(逆と言えるのかは謎)のテーマを立てなくてはならない。
だから短冊には、「寂しい」の対義語を書く必要があるのだ。
寂しいの対義語を考えてみる。ググってみると「にぎやか」と書かれていた。まったく違う。
ということはつまり、対義語としては存在しないのだろう。
意味で考える。
寂しいとはどういう状態か、心の中が満たされていないこと。何か空虚なものがあること。
では「満たされている」が対義語なのかと言うと、自分を満たすためのあらゆるものが含まれるので、これは広くなりすぎる。
例えば「おなかがすいている」も「満たされていない」状態なわけで。
短冊に「満たされた人生を生きられますように」では、「いつもお腹がいっぱいでありますように」とも言える。意味が広すぎる。
以前寂しいについてさんざん考えたことがある。
それは「つながりがない」ということだった。
前の家には小さな庭があった。そこに梅の木や柚子の木、ムクゲの花があり、毎日のように鳥が遊びに来ていた。
毎日の変化を眺めることで、寂しさが溶けていくのをわずかながら感じていた。
今の家に引っ越して便利にはなったが、自然がないことで、何かとのつながりが断たれた気がしている。おそらくそれは、生命とか自然とか四季とか、そういうものだと思う。だから切り花を欠かさないようにしているけれど、それでは足りないのかもしれない。
結婚したことで、外とのつながりが減ったような気がする。
気がするだけなんだろうか。
いや、気のせいだけではないだろう。
私は、一晩泊めてくれるような友だちがいるだろうか、と考えた。
あの人は……と考えてみるも、どうだろう。
言ってみようかと思ったけれど、「その日ダメなんだよね」と言われたらかなりショックを受けることが自分でも分かった。
寂しくなってからでは遅いのだ。
寂しくならないうちに、ショックを受けない体力があるうちに、人を誘わなくてはならないし、人と会わなくてはならない。
寂しくなってからでは動けなくなってしまう。誰かの「都合が悪い」にショックを受けるようでは誰も誘えない。
つまり「寂しい状態」の反対は「つながりで満たされている」とういことなのだろう。
少なくとも私の場合はそうだ。
それは太い一本のつながりでもいいかもしれない。でもそれではリスクが大きすぎるので、安定するためにはある程度の太さのいくつかのつながり。
さらには細いたくさんのつながりがあるといい。
SNS時代はたくさんの人とつながれるので、私にとっては以前よりずっといい。
日常的に野菜を食べるように、
定期的に運動をするように、
しっかりと睡眠をとるように、
欠かさす忘れずつながりを維持しなくてはならない。
それを感覚的にやっていたけれど、ルーティンに組み込むといいのではないか、と今思いついた。
以前は、「電流ランチ」という企画をしていて、話していて電流が流れそうな人をランチに誘う試みをしていた。
目標は週にひとりで、仕事ついでに会いたい人の近くにいってランチをするのだ。
「時間が足りない」と言っている場合ではない。
野菜を食べたり、運動をしたり、睡眠をとるのと同じ。
人とのつながりを維持することは生死にかかわることなのだ、おそらく。
短冊に書くのは
「つながりの維持を継続できますように」
ということかな。
「keep in touch」って、いい言葉だよね。