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Low Kick - 2nd -

たぶん全部ひとりごと。 テキトーだけどマジメです。

善意に自信ある?


知り合いの離婚経験者に「家族のためを思って」と言っていた人がふたり。
家族のため、と頑張りすぎていた様子。
聞いた時には「すごく優しい人なんだな」と思ったんだけど、どうなんだろう。

あとからふと思いついた言葉は、「善意(愛?)に自信があるんだな」ということ。
私なんて自分の善意を信じていないので、人のために自分を犠牲にするということがあまりできない。
そんな気持ちが芽生えても、実行していくうちに不満を感じることがわかっている。
まずは自分が満足いく形になっていないと、善意や愛もすり切れてしまうような気がしている。

昔まあ、すごく束縛してきた人がいたんですね、付き合った人で。
その時はその要求に従っていたんだけど、一定期間我慢して、目の前に「自由」が見えたときにどうしても掴まずにいられなかった。それくらい渇望していたし、欲求って押さえられないんだなーということがわかったわけです。
結局そこで別れるしかなかった。

その後の恋愛では、理不尽に束縛されそうになったときにも、たいてい抵抗していた。
欲求を押さえつけることがどんなことを生むかわかっていたから。
それに「あなたのためにやっている」みたいな気持ちになったら、ある意味相手に依存しているというか、期待する気持ちが大きくなりすぎる。

震災後のエントリー『偽善で人を救えるか』でも書いたんだけど、
見返りを求めず、人に尽くすのはなかなか厳しいものがあり、人のために動くってなかなかできない。
結局自分の都合で人に尽くし、感謝を求めてしまうから。
続けるつもりだったものを途中でやめたら、そこで相手を傷つけることになりかねない。

「困ったときはすぐに言ってね」「何かあったらいつでも協力するから」みたいなことを人に言えないのはそういうわけ。
軽く言う人がいるけど、協力を依頼するといとも簡単に断る、場合も。
もちろん言葉の裏には「私の都合が良ければ」という意味が含まれているのだろうと思うけれど、自分で言わない私はその意味をくみ取れない。
いったん傷つくけど、最近はそういうものなのだと理解した。傷ついて「もう絶対頼まない」なんて考えるのは損なので、相手が都合の良いときだけ頼めればいい。

話がずれたけど。人に尽くすことに戻そう。
もちろんすべてのことにはバランスが重要なので、自分を大事にしすぎても仕方ない。周りの人ももちろん大事にする。
だけど多分私は自分の善意や愛情を強くは信じていないのかな。
離婚する人がものすごく多い現状は、愛情が日々の生活や習慣、小さなことの積み重ねで簡単に壊れてしまうことを物語っている。
自分を犠牲にして、愛情をすり減らしてしまったら、そんなに不幸なことはない。相手のためを思ってやったことで、そのおおもとが減ってしまうなんて。

でも本当はもう少し、人のために生きられたらいいなと思っている。
「誰々のイベントの手伝いで、何時間ひたすら作った」みたいな話を聞くと、私は家族以外の人のために使える数時間すらないなあ、と思ってちょっと寂しくなる。
フラをやっていたときにも、子どもが生まれる人がいるとキルトをみんなで手作りしていた。持ち回りで手縫いするの。私のときももらった。企画してくれる人がいると言われたことはやるんだけど、自分からはなかなかできないもの。
この仕事(フリーランスに近い)をしていてある程度忙しいと、なかなか難しいのかな。ちょっとむなしい感じ。