私、2001年からブログを書いていたんですね。
ブログの前は真っ黄色な個人サイトを作って、ポエムみたいなのとか、ラクガキとか、トイカメラ「LOMO」で撮った写真とかをアップしていて、そこに日記のページもあった。
昔から、書いたり発信したりするのが好きだったんでしょうか。
でも、知り合いには教えなかった。ネットで見つけたコミュニティに入ったりとか、してた。
日記とか詩とかは、子ども時代に友だちに引かれたりして、そういうのがトラウマ(?)だったのかな。
で、2001年から始めたブログがまだ残っていて、ふと検索してちょっと読んでいたら、こんなことが書かれていた。
誰かを信じすぎてしまうと、その人の意見がちょっとでも変わったときに裏切られたような気がして勝手に傷ついたりする。人の意見なんてころころ変わるんだよな。誰かを信じすぎて依存しないようにしよう。なにか、いやなことでもあったんでしょうか・・・w
あーこの人の意見自分と似てる! と思って自分が2倍に強くなった気がして、一緒にいても、もちろん自分と違うところはあるし、一緒だった意見が変わることだってある。
そういうことに傷つく性分だったんでしょうか。
(今も、人に依存しすぎないように・・・というのは変わっていないけど)
で、いまここで考えたいのは、「人を信じる」という定義がたぶん昔と違っているってこと。
「この人は人道に反したことはしないよね」みたいなことが「信じる」ってことになっている。
例えば、思い込みの強い人が「Aだよ」と言っていたとして、「Aが正しい」ってことは信じられないけれど、その人が嘘をついていない(その人はAだと思っている)ってことは信じられる。
例えば、友だちが私には理解できない行動をしたとしても「この人はちゃんと調べているはずだし、理由を聞けば私も納得できるはず」っていう、その人の理性は信じてる。
それはおそらく、その人のパーソナリティにあわせて「私が」信じる部分と信じられない部分を決めているってことで、間違っていることももちろんあるだろう。さらに、これまでの理屈では説明できない「意外性」も受け入れるようにしている。
※だから、「こいつの言うことは絶対信じる」ってドラマのようなことはまずないよね。
つまり前みたいに、「意見が変わったから裏切られたような気持ちになる」ってことは少ないんじゃないかな。少なからずショックはあると思うので、そういうのに対して心構えしているところはあるけどね。
という、「ぶつぶつ」まとまりのない感じで。