以前、こんなエントリーを書いた。
嫌いな人は自分で決めているようで、誰かが言う悪口で決めたり、相手が自分を嫌っているからと嫌いになったり、結局自分で判断していない、という話。
今回は好きなものの話。
「好きになれ」という圧力
そんなことって、今まであまり経験なかったんだけど「○○に興味がないのはおかしいだろ」と言われることが、最近数回あった。
たぶん、一緒に盛り上がったり、共感したりしたいんだと思うんだけどね。
○○の中身は、政治だったり、教養だったり、ビジネス知識だったり、一般常識だったり、流行だったりするんだろうけど、人によって「知っておくべき」と思うものっていろいろある。
それに興味が持てず、結果あまり知らないのは私が悪いのだろうか。やっぱり、「知っておくべき」ことを知らないのは、悪いのかな。
同じ意見を求めない、違う意見を歓迎する
パートナーを選ぶ条件として「価値観が近い」「同じものが好き」を挙げる人って結構いる。でも、私はたぶん違う。
私は夫とおそらくお金の価値観は近い(というか一緒に生活するんだから近づいて来た)けど、趣味がまったく合わない。合わせようとも思わない。
相手が楽しそうにしていることに、自然と興味が出ることはある。夫がクラシックに興味が出てきたから、私も聴いてみようかな、とか。そういうの。
それはお互い嬉しいけれど、相手が「私が好きなこと」に興味を示さないからといって、何か不満に思うことはない。「興味の方向が違う」というのがそもそもの前提だからだ。
映画とかも「○○行こうよ」「えー俺はこっちが観たい」「こっちの方が面白いって!」とかで揉めるのはよくありそうだけど、私は一人で行ってしまう(子育て中なので今は難しいけど)。そもそも、観たい映画が一致すると思っていない。
夫もおそらく同じスタンスで、「あなたはそういうのが好きだよね」で、終わり。おそらく、尊重してくれているというのか。
かつ、相手に合わせて、相手が好きそうな映画を二人で観に行くこともある。一番観たい映画はひとりで見ればよくて、ふたりで観ることに意味がある、というようなとき。
「そんなことも知らないの」って思うか、言うか
私はいろいろ知らないことも多いけど、「ほんとに知らないんだね」で(呆れているようだけど)、それで終わり。過去にはバカにされることもあって、それはちゃんと言って直してもらったけど。
もちろん、私の方が知っている、っていうこともたくさんある。
今まで当たり前だと思っていたんだけど、これは大変にありがたく、贅沢で珍しい環境なのかもしれないなと。
私だけのセンサー
よく見るもの、よく目にするものは、何となく好きになってしまう。でもそこに自分の「見る目」をどれだけ入れられるか。見る目、は素人でもいい。だけどちゃんと、私だけのセンサーでありたい。
センサーの機能がすごく顕著なのは、私にとって音楽。今はあまり音楽を探しに行ったりしないのだけど、カフェやラジオで流れてくると、好きな音楽はすぐに分かる。
あまりBGMとかに気をつけて耳を澄ませているタイプでもないんだけど、私のセンサーが反応するとすぐにわかる。たとえば、こんな出会い。
ラジオで気になり、Amazon Primeでやっと見つけた! と思ったら、サイフからそのアーティストの名前が書かれたメモが出てくる、という不思議な体験。
で、私のセンサーは私のセンサーでしかないので、「この曲を聴いている人はこれも聴いています」とおすすめされたアーティストの曲を聴いても、あまり響かなかったりする。
結局
「ねばならない」で興味を示そうとしたり、誰かと仲良くなりたいからと興味あるフリをしたり、という道を通らずに生きてきてしまったわけだけど、もしかして、それってすごく贅沢だったのかな。
だいたいグループでいたりすると、「同じものを好きになろうよ」という同調圧力みたいなものに押されていくのが通常なんでしょうか。