
なぜ小説を書きたいのか? よく聞かれるけどうまく答えられなかった。
物語のプロットを作るのが好きなわけではない。
つい妄想をしてしまうタイプでもない。
誰かに感動を与えたいとか、誰かを突き動かしたいとかも、ないわけじゃないけどなんか違う。
自分の思いや考えを伝えたい、という気持ちもそんなに強くはない。
「わかってほしい」というのは、あると思う。誰かにわかってほしい。
でも、「わかりっこないよな」とも思う。
文章の中に「自分」がにじみ出る
「なぜ小説を書きたいのか」と聞かれたら、
「どんな物語でもよくて、ただ、その中で私の考えが自然と立ち現れるんだと思う。それを書きたい」と、まだ立ち現れてもいないのに言っていた。
ただ、文章を書く仕事をしているので、そういう体験がないわけではない。
人のインタビューを書いたりはするが、そこに、インタビュイーが大切にしている部分に色付けをするように、表現する。文字に色はないわけだけど、言葉や文章で表現できる。
できるだけ特徴や個性をそぎ落とした文体のつもりだけど、それでも「あなたらしい」と言われる。それは勝手に、にじみ出てしまうものなのだろう。個性は表現しなければ伝わらないかもしれないけど、何かしらの手段で表現をしているなら、個性は勝手に出てしまうのではないか(他の人の分まで検証していないので、例外はあると思うけど)。
また、何度か物語を書いてみたことはあるし、今はシナリオを数十本は書いている。その中で、私の思いというのは出ているとは思う。
どんな方法が向いているか
シナリオを数十本書く中で、いろいろな方法を試してみた。佐藤雅彦さんのいう「自分の方法を見つける」ということ。
私は、プロットは付箋紙+手書きのほうがいい。主人公のキャラクター像は、生い立ちから丁寧に追っていったほうがいい。人によると思うが、私の場合は箇条書きの履歴書ではなく、つながりのある流れで性格を固めていくといいみたいだ(今のところ)。
誰かの生い立ちをなぞり、トラウマや成功体験を作者である自分にインプットして、物語を書いていく。そうすると、主人公の心の動きがある程度分かるようになる。(手に取るようにわかるようになるには、もっともっとたくさんの何かが必要なんだろう)
高橋源一郎さんのラジオから
高橋源一郎さんの「飛ぶ教室」というラジオをアプリでよく聴いている。高橋源一郎さんの言葉は、いつも心の隙間から奥深くに染み込んでくる。
高橋さんは、冒頭でエッセイみたいなものを読む。その原稿をまとめた書籍があると知った。最近は、(できるだけ)小説を文字で読み、エッセイや実用書をオーディオブックで聞くようにしているので、オーディオブック(Audible)で『ラジオの、光と闇』を聞いた。最初に紹介される、ルワンダの内戦がラジオの誘導によるものだった、という話はとても衝撃的だったが、私にもっと強い衝撃を与えたのは、高橋さんが日記と称した連載を書いていた話。
高橋さんは日記が続いたことはなく、その連載でのみ、続けることができた。でも、人に読まれる前提の日記は、自分ではなく作家の「高橋さん」の日記だった、という。そこには書けない本当のことがある。高橋さんは、そこに書いていた日記は本当のできごとだったが、本当の意味で本当のことではなかったのかもしれない、というようなことを話した。
私は昔から日記を書いている。誰にも読まれない前提で、とても恥ずかしいことを書き続けた。高校生の頃までに書いたものは、実家を離れるときだったかに、捨ててしまった。それ以降は少しとってあるが、誰かに見られたら(恥ずかしくて)死んでしまいそうだ。
大人になってからブログというサービスができて、簡単に日記を書けるようになった。でも、一番書きたい恋愛のことは書けないから、それ以外の「書けること」を書いた。それは少しつまらなくて、自分の思ったことや考えを抽象化して書くようにしたら、ブログは書くのも読むのもずいぶん面白くなった。
ブログを書いているのに、私は誰も読まない自分だけのファイルやメモサービスに、誰にも言えない出来事や気持ちを書いた。どれだけ書くんだと、笑ってしまうけど、書いておきたかった。
どうして書いておきたいのだろうか。忘れないようにしたいから、というのもある。ただ単に忘れるだけでなく、間違って覚えているものが多々ある。私はそれを自分の日記を読み返して知った。多くの日記を書かない人は、本当の意味でそれを知らないだろうと思う。
自分の気持ちや考えを明らかにしたいのもある。私は言葉で考えないので、頭の中にあるうちはぼんやりしている。それを描写して言葉にして初めて、考えていることがくっきりとする。だから、何かアイデアが浮かんだら「早くスケッチしなくては」と思う。いろいろなものがつながって、複雑であるほど、そう思う。
ブログに書けないのは、個人的な出来事に付随する、個人的な感情だ。誰に伝えても感心できない利己的な、汚い、稚拙な、恥ずかしい感情だ。例えば、理不尽なことをしたり考えたり、劣等感やコンプレックスを強く感じたり、ほんのりとでも誰かの不幸を願ったり、そういうこと。私はそれをやっぱり、どこかに残しておきたい。
誰にも言えないのに、誰かにわかってほしい
「誰にも言えないのに、誰かにわかってほしい」
それは、私の中にあるんだと思う。
(かつ「わかってほしい」なんて思いは、とても利己的で恥ずかしく、みっともない、と言われがちなことも理解はしている)
ただ、だからこそ、思いをどうにかして人に伝える手段を、いろいろと考えた。
信頼できる人に話す、お金を払って聞いてもらう、それは本当に私にとって素晴らしい体験で、これまでうつうつとしていた自分を救うことができたと思う。何度か訪れたその体験を機に、私は変わっていったと思う。
ただ、結局全部話せるわけではないし、その人はずっと私のそばにいてくれるわけではない。聞いてもらうために呼び出すのも、たまにはいいけど、いつもいつもできるわけじゃない。
シナリオを習いながらいくつかの物語を書いて、私は自分の気持ちでなくても、主人公が受けた衝撃や言葉、できごとに対するいろいろな気持ちを描写することで、「わかってほしい」という思いを昇華できる予感を感じた。教室のゼミで何人かに聞いてもらうと、わからな過ぎて怒る人もいたし、わかってくれる人もいた。でも、わかってくれない人に対して嫌な気持ちになるわけではない。わかってくれなくてもいいんだろうと思う。それを表現できて、誰かに発表できた。それが私をすくいあげるのかもしれない。
つまり私は、主人公が持つ「日記にしか書けない感情」を、書いていきたいのだと思う。そこには勝手に、私の何かが乗り移るんだと思う。
映画やドラマは、心の描写を間接的に描く
シナリオを習っていると、言葉はセリフでしか使えないという不自由さを感じる。でもその不自由さは一方で、美しく粋な制限であると思う。モノローグ(主人公の心の声)で感情を説明するのは、基本的に無粋で野暮で、素人が陥りがちな手段なのだ。
間接的に描くのは美しくはあるけど、受け取る人の度量が必要だ。主人公に想像もつかない感情が沸き起こっている場合、やはりそれを理解することはできない。あるいはとても難しい。
でも多くの小説は、人物の内面を描く。「そんな気持ちになる人がいるとは(知らなかった)」という気持ちにさせられる。知らなかった人の内面を知れる。または、「言語化したことはなかったけど、私も同じ気持ちを持っていた」と思うことも多い。それはいずれも、基本的に小説でしかできないことだ。
「日記にしか書けないこと」
「日記にしか書けないこと」を何と表現したらいいんだろう。「誰にも言えないこと」というのとも、少し違う気がする。その言葉をくれた高橋源一郎さんに感謝したい。
日記を書かない人は、もしかすると、「それ」を持たないのかもしれない。
日記を書かない人は、自分の日記にしか書けないことを知り得ない。
結局のところ
いろいろと考えていたことがつながって、パーンとひらめいた。
私は、「本当のこと」が書きたくて、それを誰かに伝えたくて、小説が書きたいのではないか。でも、自分のことを書くと、周りの人も巻き添えにしてしまう。
フィクションなら、主人公の人生を通して「本当のこと」が書けるのではないか。それが、ひとまず今の時点で分かった、私が小説を書きたい理由だ。
上の文章で、「誰も傷つけずに本当のことが書ける」と書こうとして、それは違うんだろうな、と思った。結局何かを表現すると、誰かを傷つけることになるのだろう。周りの人も傷つけてしまうかもしれない。
それは、私が技術を身に付け、成長してからのことになると思うけど。